日本の城跡

信貴山城(別称・信貴城)


大門池越の遠望
 訪問日  H26年 4月
 ポイント  古代より大和と河内の国境に位置する戦略的重要地点。現在空鉢堂のある雄岳の山頂を中心に南北700m、東西550mにわたる規模で、山裾にかけて扇型に広がる縄張りで、120以上の郭を配する大和有数の中世大城郭。山頂には日本で伊丹城に次ぐ2番目となる天守(高櫓)を設けるなど先進的な造りであり、その後の織田信長の築城術に大きな影響を与えたと云われる。
 印象 朝護孫子寺から上がる。結構急坂だが、奥の院へ供える水を運ぶ参拝者も多く、まけずに頑張る。途中の雌岳の出城を見ながら山頂の奥の院、本丸・二の丸跡に辿りつく。本丸跡に天守(高櫓)があったらしい。その後、寺とは反対斜面の松永屋敷跡など 周辺の郭を見て回る。信長軍に徹底的に破壊され、廃城後荒れたままであったが、近年郭・土塁など遺構が整備され、大和一の威容が見られるようになった。今回は山城めぐりで少し疲れていたので一部を見て退却した。すごい城郭だ。
 地図  
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略史  南北朝期に河内から大和を窺う勢力が要衝の当地を陣所にしばしば利用した。本格的築城は戦国期に河内守護で畠山氏の家臣、木沢長政による。木沢氏は河内大平寺の戦いで討死、信貴山城も落城し廃城となった。室町幕府の管領細川氏の重臣・三好氏の家臣である松永久秀は、勢力を伸ばし大和に進出、信貴山城に入城し大規模城郭に改修した。久秀は南都の押えとして多聞城を築城、河内を合せて支配する要塞として信貴山城を用いた。その後久秀は筒井・三好連合軍の攻撃で窮地に陥り、信貴山城は攻め落されたが、京都に上洛していた織田信長に助けられ筒井方を一掃、信貴山城も久秀方に戻った。しかし久秀は筒井順慶との辰市城の合戦で敗れて以降、次第に勢力を後退させた。久秀は信長の石山本願寺攻めの時に叛旗をを翻して信貴山城に立て籠った為、信長は筒井氏と連合軍を組み大軍をもって信貴山城を落城させ、久秀も自刃し廃城となった。

奥の院(本丸)へ

奥の院への道標

同への坂道


途中の祠

雌岳(出城)

更に上る

帯郭


本丸へ

本丸土塁

本丸

本丸切岸

本丸から

二の丸・城碑

同土塁


二の丸下の帯郭



郭・石垣

切岸

虎口?

切岸

切岸



松永屋敷

同の虎口





朝護孫子寺の山門

同・同

同・二つ目の鳥居

同・福虎

同・赤門

同・本堂

同・多宝塔

同・鐘楼

同・白虎

遠望・開運橋