日本の城跡

新庄城

古墳跡の城碑
訪問日 H22年 5月
ポイント 古代大和の豪族、葛城氏の関連する人が埋葬されているとされる屋敷山古墳が新庄城跡。古墳は前方後円墳で、屋敷山の名は中世から近世初めにこの地を支配した布施氏が居館とし、更に桑山氏が江戸時代に陣屋を築いたことに由来している。この為古墳はかなり変形している。
印象 ここも屋敷山公園になっている。大和で多くみられる古墳の上に築城。小山で、周囲に環濠もあり居館には便利。古墳の頂部をいくつか削平し、曲輪が残っている。また水堀に利用した環濠の一部もあった。
地図
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略史  紀伊和歌山城主桑山重晴の嫡男一晴は関ヶ原の戦いで東軍に与し、和歌山城を守衛したことで戦後大和布施所領を与えられ、布施藩を立藩した。しかし一晴は31歳で死亡、弟一直が相続し、居所を新庄に移したため布施藩は廃藩となり、新庄藩が立藩した。一直死後、一玄、一尹と続いたが、一尹の時、4代将軍家綱の葬儀の際、公家饗応掛の勤役中不敬な振舞いがあったとして除封され廃藩になった。
主郭部分の遠望
主郭
曲輪
公園内
発掘された長持型石棺の天井石
環濠跡の堀跡