日本の城跡

高取城(別称:芙蓉城・鷹取城)

二の丸から太鼓櫓・新櫓石垣を見る
訪問日 H17年12月
ポイント 高取城は奈良盆地と吉野地方との間の標高584m.の高取山にある。近世の山城としては異例の高さと規模を誇る堅城である。江戸時代、藩主植村氏が当初山城の屋敷に居住した為、家臣全部が山上生活を強いられた。この為二の門から本丸に至るまで十二の城門が設けられ、その両側に武家屋敷や作事小屋が建ち並んでいた。更に大天守・小天守をはじめ櫓27を数え、複雑に縄張りされた石垣の総延長は3`弱に及ぶ壮大な城郭。
印象 日本三大山城の一つ。全山、石垣が累々といたるところに、雑草の中にも。八幡郭までタクシーで壺阪口から入る。一部石垣が崩れかけていた。どんどん登るほどに高石垣がぐんぐんと迫ってくる。二の丸・本丸に近づくと、更にびっくりする、すばらしい山城だ。こんな高所にどうやって石を積上げたのか、ただただ感心する。粉雪が舞い散る本丸・天守に登る。誰一人いない本丸でにぎり飯とお茶を強い風を石垣で避けながら食す。明治までここに天守・御殿・武家屋敷が建っていたが、取り壊され今はない。桜の季節がまた良いらしい。帰りは下りを各門、草ぶる石垣の間を潜り抜けてきたが結構疲れた。城下町の雰囲気が残る町並みを楽しみながら歩いた。印象深い城郭だ。
地図
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略史  護良親王の挙兵に応じた越智氏が貝吹山城の詰城として築城した。戦国時代に中世城郭として改修、堅固な城となったが織田信長の一国破壊令で破却された。その後筒井順慶が再度郡山城の詰城として復興し、秀長も重視して家臣本多正俊に入城させ本格工事を命じた。本多氏は関が原で徳川家康与し安堵され立藩したが嗣子続かず断絶、廃藩したが幕府の大番頭植村家政が再立藩し、明治まで在藩した。家長の時幕府のの信任厚く、大和国内の多くの幕府領を預かり、また若年寄、老中に昇進した。幕末、天誅組との武器提供の約束を反古した為来襲を受けたが撃退した。鳥羽伏見の戦いでは禁裏唐門を警衛、更に芝村藩と共に大和の代官支配地の取締りを新政府から命じられた。
遠望
八幡郭
登城路
途中の石垣
壺坂口門
壺坂口郭下から三の丸方向
   
壺坂口郭へ
壺坂口中門
三の丸石垣
二の丸帯曲輪石垣
古川屋敷石垣
三の丸・二の丸石垣
  
二の丸石垣
二の丸大手門石垣
同桝形
同桝形から二の丸御殿方向
  
二の丸御殿へ
二の丸御殿桝形
同桝形
二の丸十三間多聞
二の丸
本丸下曲輪口の十五間多聞
本丸下曲輪からの本丸・天守台石垣
 
太鼓櫓・新櫓石垣を内側から見る
本丸下曲輪の城碑
本丸下曲輪の礎石にされた石仏
本丸より見た太鼓櫓・新櫓
    本丸桝形
本丸石垣・桝形
   
同桝形
同桝形石垣
  
    本丸天守台石垣
本丸・天守台
天守台・井戸
  
天守台
小天守台方向
本丸硝煙櫓方向
本丸天守台・下曲輪方向
本丸石垣・辰巳櫓台
本丸内部石垣と鉛櫓方向及び外郭
本丸外郭・宝蔵
本幕下曲輪から新櫓台石垣
小姓櫓石垣
具足櫓石垣
吉野口郭
  
左三の丸(城代屋敷)・右井戸郭
千早門
武器櫓石垣
宇陀門
武家屋敷石垣
松の門
武家屋敷石垣
矢場門
国見櫓へ
国見櫓
国見櫓から明日香方向
櫓台石垣
三の門
武家屋敷石垣
二の門水堀
二の門
明日香村から発掘された大手の守り神去る石
黒門から二の門に通じる一升坂
大手道と宗泉寺との分岐
植村家政の邸宅(植村家菩提寺宗泉寺・別所郭)
聖天さま
黒門
復元松の門
  
植村家家老屋敷長屋門
植村家下屋敷移築門(石川医院)
同移築門
城下
前方屋敷は武家屋敷田塩邸