日本の城跡

多聞城

遠望
訪問日 H16年12月
ポイント 奈良市街地の北の佐保山丘陵の東南隅にあり、現在は若草中学校と仁正皇后陵と聖武天皇陵になっている。南麓に外堀の役目を持つ佐保川が流れ、東は堀を隔てて善勝寺山、その東は京街道がはしる交通の要衝である。細川氏の勝龍寺城と同じ、近畿地方に多い周濠古墳を利用しているが、近世城郭の先駆でもある。城郭史上初めての天守のような高層櫓や塁上に設けた長屋造りの多聞櫓など独創的な築城であった。それらを白壁で塗りこめた美しい姿は宣教師によりポルトガルに知らされている。後の織田信長の安土城の原型になったという。
印象 歴史上有名な城で期待を込めて訪問するも、中学校建設で破壊されており、加えて城郭の一部であった隣接の陵墓は進入禁止で遺構はあまり分からなかった。ただ、築城時建物の基礎に投入された石塔類が掘り出され学校脇に集積されていたのが印象的だった。
地図
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略史  松永久秀の居城。久秀は阿波の三好長慶に重用され、大和に入って筒井順慶ら国衆を追い、信貴山城を改修して居城とし、以後大和を事実上の領国にし長慶政権下の最大の実力者として台頭した。その後興福寺に代って南都を完全に掌中に収めるべく興福寺に近い眉間寺山に多聞城を本城とて築城し、信貴山城も詰城ないしは河内の出撃拠点とした。長慶死後、三好三人衆と共謀して将軍足利義輝を暗殺したが、逆に三好勢と対立し、筒井順慶らと結んだ三好勢に久秀は追い詰められ南都は一旦は制圧された。しかし久秀は東大寺に布陣する三好勢を奇襲して大仏殿を焼くという非常手段で危機を脱した。その後も抗争は続いたが織田信長が足利義昭を奉じて入京すると、ただちに軍門に下り信長の支援を得て形勢を逆転した。しかし筒井勢の反撃が始まり、順慶の信長への帰服を機に勢力は逆転し久秀の力は弱まった。この為久秀は退勢挽回を図るべく武田氏と通じたが失敗し、信長に降伏し信貴山城に退いた。その後久秀は失地回復を狙って叛旗を翻したが失敗し敗死した。多聞城は明智光秀等城番が置かれたが、筒井順慶が信長に大和を与えられた時順慶は筒井城に入り当城は廃城となった。石垣は筒井城に、建物は二条城に移されたという。
中学校正門
同・城碑
城壁
掘り出された石塔類
隣接の聖武天皇陵