日本の城跡

橘寺


遠望
訪問日 H30年 4月
ポイント 橘寺の伽藍配置は、中門、塔、金堂、講堂が東西に一直線に並ぶ四天王寺式伽藍配置であったと考えられている。橘寺については、正史と寺伝が大きく違っており、飛鳥の寺で一番分からない寺とも言われている。即ち、寺伝では太子は欽明天皇の別宮があったこの地で誕生した。寺は推古天皇が発願され、太子に建立を命じ、太子が建立した。正史では太子の誕生地は、父用明天皇の磐余池辺双槻宮であろう(現在の桜井市池之内周辺か)。建立時期は発掘調査から、天智朝創建の可能性が高い。北側にある官寺・川原寺と対をなす尼寺として建立されたのではとに説が有力である。従って創建は推古朝までは遡らないとされる。
印象 二回目の訪問。現在は比較的こじんまりした感じの寺だが、創建当初は広大な寺域を持ち、堂宇が林立していたようだ。しかし都の遷都による衰退や落雷や戦乱等の災害で多くの仏像・宝物は他寺へ譲渡したり、焼失したりして無く、唯一古いものは観音堂の如意輪観音座像(平安時代作)が残っている。特に法隆寺には49体の仏像を譲渡しており、法隆寺の玉虫厨子は元は橘寺の寺宝であったとのこと、寺の栄枯盛衰を感じさせられた。
地図
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略史  橘寺の付近に聖徳太子が誕生したとされる場所があり、太子建立七大寺の一つとされる。太子が父用明天皇の別宮を寺に改めたのが始まりと伝わっているが、創建は7世紀第Ⅰ四半期、本格的な造営は7世紀半ば以降であろう。橘寺は皇族・貴族の庇護を受けて、かなり広大な境内地の中に66棟のお堂を抱えて栄えたが、平安期に入り他の南都大寺と同様に衰えた。だが鎌倉期には太子信仰の興隆とともに復興を見せ、平安後期に落雷で焼失した五重塔が、三重塔ながら再建された。しかし室町後期、幕府の管領細川政元の家臣、赤沢朝経による多武峰妙楽寺攻めの際、橘寺の僧が赤沢軍に与した為、多武峰の衆徒によって焼き討ちにされ、ほぼ伽藍全体が灰塵と帰し、廃寺同然に衰えた。その後本格的な伽藍の再建はされなかったが、太子ゆかりの寺として、その後も法灯を守り継いた。そして江戸末期に30年かけて現在見られる堂舎がほぼ再建された。また平成9年には、往生院と聖倉殿が再建されている。

寺域

同・太子誕生地碑


西門方面の遠望

西門



観音堂

経堂

観音堂

太子堂

二面石

左、悪面

右、善面

五重塔の塔心礎

三光石
  経堂脇の蓮華塚

東門への参道

金堂跡

講堂跡

遠望
橘寺から川原寺跡