日本の城跡

竜田陣屋

平太池・屋敷跡
訪問日 H22年 5月
ポイント 竜田は東は竜田神社・法隆寺から奈良へ、西は信貴山・河内へ、南は王子・達磨寺へ、北は平群谷から生駒への分岐点で交通の要所であり、また商売繁盛の夷社を竜田神社に勧請していることから、古くから人が集まり繁栄していた。陣屋は、南は平太池、西は長池、東は鎌池に守られていた。竜田川の流れを改修して西の外堀とし、平太池の南の一段低くなった所は下級武士の屋敷と外堀があった。
印象 残念だったが、時間がなかったので周囲を廻ったのみ。次回チャンスがあったら再訪したい。
地図
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略史  豊臣秀吉の家臣、片桐且元は賤ケ嶽の軍功で加増受けて茨木城主となった。その後も豊臣秀吉の下で全国を転戦、秀吉死後、遺児秀頼の補佐役となった。関ヶ原の戦いで家康に証人を差し出したことから、大和に加増受けて竜田に立藩した。その後方向寺鐘銘事件で窮地に陥ったが、大阪冬の陣で徳川方に属した為、山城・大和他に加増受けた。且元死後、相続した孝利も38歳で死亡、嗣子なく絶家の危機に見舞われたが、弟為元が1万石で家名相続を許された。しかし次の為次も若年で死亡し、無嗣絶家の為除封され竜田藩は廃藩に。幕府は過去の功績を惜しんで、為元の次男且昭を寄合旗本に取り立てたが、嗣子無く没し、更に養子とした一族の貞就も若年で死亡した為、ここに名門片桐家は断絶した。
平太池   下級武士屋敷、外堀跡 陣屋跡にある白山神社