日本の城跡

田原本陣屋


陣屋跡(田原本役場)
 訪問日  H26年 4月
 ポイント  二代長勝の時、寺内町を支配していた教行寺を退去させ、本願寺派の円城寺(現浄照寺)を建立し、町の東の寺川沿いに陣屋を構築して城下町を形成した。早くから大和川・寺川を利用した水運が開け、船による大阪都の交流物資の集散地として問屋が発達し、”大和の大阪”とも呼ばれた。
 印象  陣屋の跡地に田原町役場が建っている。外堀の役目を果たしていた寺川沿いから見ると陣屋跡らしい。商人が栄えた町らしく旧家の建屋が目を引いた。陣屋の遺構はなかった。
 地図  
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略史  文禄四年(1595)に平野長泰は豊臣秀吉から、賤ヶ岳七本槍の軍功として十市郡に五千石を拝領した。長泰は関ヶ原の役では東軍に与して活躍した。しかし領地経営は教行寺にゆだねていた。寛永五年(1628)嫡男長勝が後継となったが、教行寺との関係が悪化、自ら領地経営を行うため薬王寺村に仮陣屋を構え、寛永十二年(1635)に田原本に陣屋を築造した。平野氏は代々、交代寄合の旗本であったが、最後の長裕が明治元年に十市郡内に加増を受け、諸侯に列し田原本藩が立藩した。しかし三年後に廃藩置県を迎えた。

寺川沿いの陣屋跡

陣屋碑

周辺

町中の水濠