日本の城跡

豊田城

遠望
訪問日 H23年 2月
ポイント 天理市街の東北、天理教の迎賓館のすぐ東の豊田山の山頂に主郭を置き、周囲を空堀や土塁で囲み、竪堀を放射状に配置している。更に東と南を郭で固め、空堀と土塁で区画、堀底道で主郭と連絡している。奈良県の中世城郭の中で、特に空堀が多い城跡として有名、松永久秀が大和に侵攻後は久秀軍の押城として利用されたようで、南・東郭や土塁・空堀が増強された。
印象 天理教38母屋の脇から入る。今回、溜池に出て左に暫く行くところを、すぐに池沿いに右折した為、結果的には主郭に行けず、尾根沿いの空堀・竪堀を見て終わってしまった。それでもしっかりした空堀・井戸跡・竪堀等発見納得した。再訪したい城跡だ。
地図
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略史  興福寺二大門跡の一つで大乗院衆徒豊田氏の居城。豊田氏はもうひとつの門跡一乗院衆徒の井戸氏と争い、大和永享の乱のきっかけを作っている。豊田氏は衆徒の中では筒井・古市氏両雄に次ぐ位置にあり、越智氏と連携して井戸・筒井氏方と戦った。一時は筒井氏が越智氏に大敗して井戸方は形勢不利になったが、筒井氏を支援する将軍足利義教の介入で越智方は徹底的に粉砕され没落し、豊田城も落城した。しかし将軍義教が暗殺され衆徒は復活、筒井氏は勢力を回復したが、内紛に伴う河内守護畠山氏の介入で筒井氏は一時没落した。その後の畠山氏の内紛から勃発した応仁の乱の中で、大和に影響力を行使していた畠山政長が細川政元により敗死した。これにより大和の衆徒は結束を固め、筒井氏も復活、反筒井の越智氏も細川氏と決別し大和国人の一揆体制ができた。しかし細川政元は古市氏の先導で、配下の赤沢朝経を派遣し大和の制圧に成功した。この時豊田氏は筒井与力衆として豊井に布陣したが敗れている。その後細川氏の内紛等で大和は混乱が続いたが、南河内守護代遊佐氏と組んだ筒井順昭が大和を統一。順昭の死去に伴い幼い順慶が継いた為、三好長慶の家臣であった松永久秀が大和を狙い乱入した。この時豊田城も松永軍に攻められ落城、豊田氏は井戸氏と共に井戸城に立て篭もった。その後豊田氏は松永方に内応し、井戸城を脱出したが筒井氏との辰市城合戦で松永軍に属して討死した。
登城途中の石碑 尾根・城塁 竪堀
尾根・堀切
尾根・井戸跡 空堀
空堀 竪堀 空堀
竪堀 土塁
土塁・横堀
横堀