日本の城跡

宇陀松山陣屋


西口門
 訪問日  H26年 4月
 ポイント  長山の陣屋は現宇陀市役所大宇陀事務所一帯に築かれたが、遺構はない。春日の陣屋は春日神社の北側の現天理教宇陀分教会一帯に築かれた。神社参道に櫓台の石垣で造られた春日門跡が残っている。春日門は陣屋・武家屋敷地と城下町の町人町を区分した虎口。また城下には西口門が現存している。
 印象  宇陀は物資の流通の要衝として繁栄したらしく、城下町には立派な商家が残っており、往時を偲んで散策した。長山の方は何もないが、春日の陣屋跡は天理教会があるが、土塁や石垣があり、また隣りの石垣の春日門等から陣屋の雰囲気が感じられた。
 地図  
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略史  元和元年(1615)、宇陀松山藩の福島正則の弟福島孝治は大坂夏の陣で豊臣方への内通を理由に改易され、松山城(旧姓秋山城)は破却された。同年、織田信雄が五万石で入封し、川向かいの長山に陣屋を構築した。その後四男信良に上野小幡に分知し、三万石を領した。寛文十一年(1671)、三代長頼の時に松山城の麓の春日の地に新たな陣屋を造った。元禄七年(1694)、四代信武の時お家騒動が勃発、信武が自殺したため、五代信休は丹波柏原に減封の上移封となった。この時織田家嫡流の家柄が重んじられ、準国主の格式から並の大名に格下げのうえ、移封存続が認められたもの。松山藩は織田氏移封後天領となった。

西口門(内側)

春日門跡

春日陣屋跡

同(天理教会)




城下町

城下に流れる宇陀川

城下町






道標

長山陣屋跡