日本の城跡
柳生陣屋
略史 辰市の合戦で松永久秀方に与し、筒井順慶方に敗れた柳生新陰流の開祖、柳生石舟斎宗巌、子の宗矩父氏は逼塞していた。宗巌・宗矩父氏は京都で新陰流兵法を徳川家康に披露し、父の推挙で宗矩は家康に仕えた。宗矩は関ヶ原の戦いで諜報活動を認められ柳生の地に2千石を与えられた。以後、将軍の兵法指南役として重用され、更に千姫事件で坂崎出羽守を説得、自刃させ津和野城受取の上使となった。初代惣目付に就任した。寛永13年(1636)に加増うけて柳生藩を立藩し、従来の居館の地に陣屋を構築した。家光の信任も厚く、島原の乱では徳川一門か老中からの上使を任命するよう陳言した。宗矩没後、三厳、宗冬他に分与した為旗本格になったが、宗冬が家綱、綱吉の剣術指南役になり、加増受け再度諸侯に列した。次の宗在に子が無く血統が絶え、以後養子相続を繰り返し、剣抜の相伝は明治維新まで門人の手によって伝えられた。 |