日本の城跡

柳生陣屋

遠望
訪問日 H22年 5月
ポイント 陣屋は打滝川沿いの柳生盆地の南寄りにあって、川にせり出した丘陵上に立地している。北・南・東三面は急崖である。川の対岸には柳生本城があり、柳生氏の居館があったところ。大和の国人衆は筒井氏に従って伊賀に移り、主家改易と運命を共にした者や、大阪方について滅んだ者が殆んどで、大名化したのは柳生氏だけである。柳生氏が幕末まで存続できたのは剣術指南役としての他、大目付として幕府の諜報活動に従事していたこと、伊賀・甲賀と地続きの山間であったことも大きい。
印象 柳生本城の次に川の対岸の丘陵にある陣屋に。旧柳生街道と八坂神社の間の正木坂を登っていく。陣屋は火災で全焼した後、仮屋のまま明治維新を迎えた。その後小学校になっていたが、今は史跡公園に整備され、建物跡の間取り等が再現されていた。昼に名物の黒米・赤米の茶づけを食す、素朴な味。天気の良い日にのんびりと歩き廻りたい所だ。
地図
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略史  辰市の合戦で松永久秀方に与し、筒井順慶方に敗れた柳生新陰流の開祖、柳生石舟斎宗巌、子の宗矩父氏は逼塞していた。宗巌・宗矩父氏は京都で新陰流兵法を徳川家康に披露し、父の推挙で宗矩は家康に仕えた。宗矩は関ヶ原の戦いで諜報活動を認められ柳生の地に2千石を与えられた。以後、将軍の兵法指南役として重用され、更に千姫事件で坂崎出羽守を説得、自刃させ津和野城受取の上使となった。初代惣目付に就任した。寛永13年(1636)に加増うけて柳生藩を立藩し、従来の居館の地に陣屋を構築した。家光の信任も厚く、島原の乱では徳川一門か老中からの上使を任命するよう陳言した。宗矩没後、三厳、宗冬他に分与した為旗本格になったが、宗冬が家綱、綱吉の剣術指南役になり、加増受け再度諸侯に列した。次の宗在に子が無く血統が絶え、以後養子相続を繰り返し、剣抜の相伝は明治維新まで門人の手によって伝えられた。
陣屋跡 同・井戸跡 同・庭園 旧柳生街道の正木坂・石垣
正木坂・土塁 柳生八坂神社 縄張り 家老・小山田邸