日本の城跡

薬師寺

訪問日 H30年 4月
ポイント 薬師寺は興福寺と共に法相宗の大本山で、南都七大寺の一つ。伽藍配置は本薬師寺の「薬師寺式伽藍配置」をほぼ再現したもので、中央に金堂、手前に中門、背後に講堂を配し、金堂の手前東西に三重塔を置く独特な構成。そして中門からの回廊が、金堂、東西の塔を囲んで講堂に達している。その伽藍はわが国随一の壮美を誇り、なかでも裳階を施した金堂や塔のたたずまいの美しさは、”龍宮造り”と呼ばれた。
印象 今回で4回目。毎回新しく、そして綺麗になっているようだ。高田好胤管主に始まる説法、写経勧進は本来の宗教活動で、その広がりが現在の興隆を導いたもの。現在も僧侶による面白い法話が続いているようだ。ただ、最近の村上管主の女性スキャンダルや再建資金の為なのか、少し金儲け主義的な対応が気になった。最初に行った時に見た、畑の中にぽつんと立つ東塔の姿が懐かしく思い出されたが。
地図
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略史  薬師寺は680年、飛鳥の地で天武天皇により発願、697年に持統天皇によって本尊開眼され、文武天皇の時代、698年頃に完成した。710年、平城遷都に伴い現在地に移された。飛鳥の薬師寺は廃寺とはならず、10世紀ころまでお寺として存続した(本薬師寺跡)。奈良の地で移された薬師寺は、興福寺などと同様に国家による一大事業として建築は進められ、739年には「東塔」も完成し、壮大な伽藍を誇った。しかし平安京に遷都後は、奈良にある他の寺同様に勢力を維持することは難しくなっていった。そして973年の火災、南都焼打ち、中世に入り南海地震や暴風による建物の倒壊するなど幾多の災害を受けてきた薬師寺だが、1528年の筒井順興らが関係する兵火では、東塔を除く金堂・講堂などといった主要な仏堂が廃塵に帰してしまった。昭和42年、高田好胤管主が薬師寺白鳳伽藍の復興を発願。失われた堂塔の復興を大悲願とし、写経勧進によって、金堂・西塔・中門・回廊、玄奘三蔵院伽藍そして平成15年に大講堂の復興が実現し、現在も白鳳伽藍の再現を目指している。ただ、移転についてはそのまま移した説と、新しく建立した説が学界でも分かれている。

左、休ヶ岡八幡宮・右、孫太郎稲荷神社

孫太郎稲荷神社

薬師寺南門前から

南門

中門、東塔は修理中

同から西三重塔

中門

金堂

西塔


金堂と西塔

西塔



金堂

講堂


同を裏側から

食堂

玄奘三蔵地蔵院

玄奘三蔵院伽藍・札門

玄奘塔


パンフより
平成20年頃訪問
     同
     同
     同