日本の城跡
大和郡山城(別称:犬伏城)
略史 郡山丘陵には郡山衆と言われる武士団が居住していたが、その中の郡山中氏の居館が城郭化した。筒井氏支配後、松永氏との激しい抗争期には拠点の城となり堅城ぶりを発揮した。松永氏の滅亡後は織田信長から大和の支配を許された筒井氏の本城として整備拡張された。本能寺の変で明智光秀の与力を務めたり、子を養氏としていたが、羽柴秀吉に味方し本領安堵された。しかし36歳で没し、甥の小泉四郎が筒井定次を名乗り後継となったが伊賀に転封され、羽柴秀長が入城し城郭、城下町を一段と整備した。その後増田長盛、関が原後一時廃城したが水野勝成、奥平松平忠明、本多政勝と、大阪の陣の大和口先鋒で活躍した勇将が次々入封した。政勝は藩政を整備し城下町は発展した。しかし政勝没後嫡流、庶流間の激しい家督争いが起き、幕府の裁断で二分し治めたが結局双方転封され、その後藤井松平、本多氏が入封した。大火・財政悪化で苦しんだが文運は興隆し、熊沢蕃山・細井平洲・林宗甫らが活躍した。そして柳沢吉里の入封で安定、禁裏守護と南都・京都の火消しの大役を任じた。吉里は儒学に造詣深く、藩校を創設し教育に注力した。最後の藩主保申は幕末、京都警備や天誅組の五条代官所襲撃事件、禁門の変への出兵と奮闘したが、戊辰時は奥羽追討軍に参陣している。 |