日本の城跡
府内城(別称:荷揚城・大分城)
略史 豊前・豊後守護大友氏は宗麟時代に最盛期であったが、この義統の時に島津氏に敗れ、豊臣秀吉の後援を得てかろうじて豊後を領有。しかしその義統も朝鮮の役での進退を秀吉に咎められ、改易され大友氏は滅亡した。秀吉は豊後を分割し、府内には早川長敏が入城したが、4年後杵築に移り、替って石田三成の娘婿・福原直高が入封、大分川河口に新城を築城した。しかしこの築城を徳川家康に咎められ、福原氏は追放、再度早川氏が入城した。関ヶ原の役で西軍に与した早川氏は断絶、豊後高田から竹中重利が入封した。しかし嫡男重義が罪を得て刑死、替って入った日野根義明も嗣子なく除封、次に大給松平忠昭が入封して落ち着いた。次の近陳は寺社奉行等幕府要職を務めた。その後の藩主も倹約令、藩札の発行、櫨・楮・筵の専売、運上金の徴収等藩政改革し成果を挙げている。最後の近信は桑名藩松平定永の七男で若年寄に任ぜられた為、尊王の態度もとれず、藩論は二分したが、鳥羽伏見で島津家を通じて新政府に恭順した。 |
再現模型 |
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大手方面 |
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本丸・東丸と埋立てられた内堀 |
大手門 |
宗門櫓 |
大手門 |
西丸南側水堀 |
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東丸着到櫓 |
東丸南側水堀・旧平櫓 |
同旧平櫓と三重櫓台と東側水堀 |
東丸二重櫓と東側水堀 |
同東丸二重櫓・水堀 |
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東側腰曲輪 |
同、右側は昔は海 |
菱櫓台・扇櫓台・天守台 |
東丸二重櫓・菱櫓台 |
人質櫓・北側水堀 |
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人質櫓・山里丸に架かる廊下橋 |
人質櫓 |
廊下橋付近から見た人質櫓 |
山里丸に架かる廊下橋 |
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山里丸 |
本丸北二重櫓台、内堀へ繋がっていた |
廊下橋右側の堀 |
廊下橋からの西丸虎口 |
同西丸枡形虎口 |
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西丸、開口部は近年のもの |
埋立てられた本丸内堀 |
本丸二重櫓台 |
天守台へ |
天守台・菱櫓 |
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天守台石垣 |
人質櫓 |
西丸開口部 |
西丸西側水堀 |
同・西南隅櫓 |
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西丸の西南隅櫓 |
同・県庁(三の丸) |
県庁(家老屋敷跡) |
大手方面 | 三の丸 |
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