日本の城跡

府内城(別称:荷揚城・大分城)


大手周辺
訪問日 H27年11月
ポイント 城は大分川と住吉川に挟まれ、北は海に、東は大分川河口に面し海城。縄張りは大きく三つの郭と三重の堀からなり、四重の天守が聳え、23の櫓と5つの門、3か所の廊下橋が築かれていた。竹中重利の築城時には、加藤清正に依頼して石垣を築く人員を派遣してもらい、天守など主要な石垣を築いたという。また海と堀を仕切る土手は、海水の干満で起きる堀の水位低下を防ぐ目的と、海上からの攻撃を遮る城壁として有効であった。
印象 100名城のひとつ。本丸周辺の改変が大きい。本丸を囲む内堀が埋立てられ、西丸・東丸と一緒になり、最近まで文化会館が建っていたが、今は撤去され広場になっていた。ただそれらを囲んだ石垣と土塁、水堀と一部櫓は健在で立派。最近山里丸との廊下橋が復元された。三の丸にあった武家屋敷は市役所、県庁他に埋没。がっちりした城で、かつ巧妙に工夫された縄張りのようだが、堀が埋立てられ分からなくなっている。残念な城だ。どこから写真を撮っても、必ず高層ビルが写ってしまう。
地図
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略史  豊前・豊後守護大友氏は宗麟時代に最盛期であったが、この義統の時に島津氏に敗れ、豊臣秀吉の後援を得てかろうじて豊後を領有。しかしその義統も朝鮮の役での進退を秀吉に咎められ、改易され大友氏は滅亡した。秀吉は豊後を分割し、府内には早川長敏が入城したが、4年後杵築に移り、替って石田三成の娘婿・福原直高が入封、大分川河口に新城を築城した。しかしこの築城を徳川家康に咎められ、福原氏は追放、再度早川氏が入城した。関ヶ原の役で西軍に与した早川氏は断絶、豊後高田から竹中重利が入封した。しかし嫡男重義が罪を得て刑死、替って入った日野根義明も嗣子なく除封、次に大給松平忠昭が入封して落ち着いた。次の近陳は寺社奉行等幕府要職を務めた。その後の藩主も倹約令、藩札の発行、櫨・楮・筵の専売、運上金の徴収等藩政改革し成果を挙げている。最後の近信は桑名藩松平定永の七男で若年寄に任ぜられた為、尊王の態度もとれず、藩論は二分したが、鳥羽伏見で島津家を通じて新政府に恭順した。

再現模型

大手方面

本丸・天守台

本丸・東丸と埋立てられた内堀

大手門

宗門櫓

大手門

西丸南側水堀

東丸着到櫓

東丸南側水堀・旧平櫓

同旧平櫓と三重櫓台と東側水堀

東丸二重櫓と東側水堀

同東丸二重櫓・水堀

東側腰曲輪

同、右側は昔は海

菱櫓台・扇櫓台・天守台

東丸二重櫓・菱櫓台

人質櫓・北側水堀

人質櫓・山里丸に架かる廊下橋

人質櫓

廊下橋付近から見た人質櫓

山里丸に架かる廊下橋

山里丸

本丸北二重櫓台、内堀へ繋がっていた

廊下橋右側の堀

廊下橋からの西丸虎口

同西丸枡形虎口

西丸、開口部は近年のもの

埋立てられた本丸内堀

本丸二重櫓台

天守台へ

天守台・菱櫓

天守台石垣

人質櫓

西丸開口部

西丸西側水堀

同・西南隅櫓

西丸の西南隅櫓

同・県庁(三の丸)

県庁(家老屋敷跡)
大手方面

三の丸