日本の城跡

日出城(別称:暘谷城)


本丸高石垣
訪問日 H27年11月
ポイント 日出は古くから海陸交通の要衝。本丸は三層の天守、二層櫓が5、平櫓が1、城門3、居館が設けられ、北・東・西の三方を薬研堀の堀をめぐらし南は海に面している。これを侍屋敷の二の丸、三の丸、さらに町屋および港が総曲輪内に取りこまれた海上的縄張りともなっていた。木下家は海防にも関心が高く、帆足万里の”東潜大論”の外国侵略についての備えとして、数十門の洋式大砲・レミントン銃80丁・スピンドル銃100丁を備えていた。
印象 想像以上の城だった。小・中学校等になっている。大手の小学校の正門の薬研堀・土橋、本丸周囲に残る高石垣は圧巻だ。波が洗っていただろう、南側の石垣、その上に立つ天守台から見る別府湾の眺望がすばらしい。二の丸櫓・鬼門櫓・藩校致道館が復元。本丸と三の丸を降りていくと、海に落ちるような空堀跡等々、残された城遺構が丁寧に整備され、大切にされていると感じた。隣接する親藩の杵築藩、外様の日出藩はほぼ同じ石高ながら、城つくりは天然の要害を利用した杵築城、高石垣と堀で固めた日出城と対照的で、共に明治まで在藩した。
地図
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略史  関ヶ原の役後、豊臣秀吉の甥にあたる木下延俊が日出藩に入封、縁戚にあたる中津城主細川忠興の援助を受け、大神氏が築いた赤坂光蓮寺一帯にあった日出城を、海に面した青柳に新城を移築した。木下氏は関ヶ原の役で東軍に属して姫路城を守った功で家康から35万石の加増を受けた。しかしそのお墨付きを持った使者が帰る途中に暴漢に襲われ、お墨付きを奪われる事件が発生(家康の陰謀?)、結局、姫路城は池田輝政に与えられ、木下氏は日出3万石に移封された。藩政は鶴成金山が発見され財政の柱となった。俊治は蘭草を導入、俊長は溜池を築造し農耕を奨励、更に学問に尽力した。俊程も溜池築造や桧等の植林を、更に藩校を創設し学問の普及に注力した。幕末、藩論は二分したまま維新を迎えた。

海越しの遠望

二の丸復元櫓・井戸

二の丸復元門・櫓

二の丸

同・武家屋敷門

本丸薬研堀

二の出中・二の丸

同・二の丸・三の丸

搦め手門跡

同高石垣・空堀

二の出小・本丸

本丸高石垣・空堀

海に落ちる空堀

同を下から

同付近の石垣

海側の石垣・曲輪

本丸天守台

海側石垣

同・虎口

同を上から

次の虎口

同を上から

本丸への虎口


同からの石垣

天守台

海側石垣

石垣

同付近から別府湾

海側


小学校正門・大手


同土橋

大手左側薬研堀

同右側

同・復元鬼門櫓


本丸北西高石垣・堀

本丸西側高石垣

本丸海側高石垣


城下カレイの海岸

藩校致道館

武家屋敷街

武家屋敷門

武家屋敷街