日本の城跡
日出城(別称:暘谷城)
略史 関ヶ原の役後、豊臣秀吉の甥にあたる木下延俊が日出藩に入封、縁戚にあたる中津城主細川忠興の援助を受け、大神氏が築いた赤坂光蓮寺一帯にあった日出城を、海に面した青柳に新城を移築した。木下氏は関ヶ原の役で東軍に属して姫路城を守った功で家康から35万石の加増を受けた。しかしそのお墨付きを持った使者が帰る途中に暴漢に襲われ、お墨付きを奪われる事件が発生(家康の陰謀?)、結局、姫路城は池田輝政に与えられ、木下氏は日出3万石に移封された。藩政は鶴成金山が発見され財政の柱となった。俊治は蘭草を導入、俊長は溜池を築造し農耕を奨励、更に学問に尽力した。俊程も溜池築造や桧等の植林を、更に藩校を創設し学問の普及に注力した。幕末、藩論は二分したまま維新を迎えた。 |