日本の城跡
杵築城(別称:臥牛城・勝山城・台山城)
略史 城は1250年、豊前・豊後守護大友親秀の六男親重が、分与を受け木付邑に入り、木付氏を名乗って、高山川の竹ノ尾の淵の高台に竹ノ尾城を築いたのが最初。木付氏四代頼直は南北朝争乱の時、菊池氏討伐戦で大友氏に従軍して軍功を挙げ、1394年に八坂川と高山川の合流地の台地上に木付城を築いた。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、宗家大友義統は敵の大軍の来襲を前に逃亡、秀吉によって改易され義統は自刃し、従軍していた木付氏も切腹して木付氏は滅亡した。九州を平定した秀吉は前田玄以、杉原長房に入城させたが、秀吉歿後、秀吉の遺言で徳川家康は丹後田辺城主細川忠興に木付を加増、細川氏は城代を置いて支配した。関ヶ原の役の時、東軍細川氏の木付城は復権を狙う西軍方の大友吉統の攻撃を受けたが、中津城の黒田如水の支援も受け退けた。役後細川氏は軍功で豊前中津城(後に小倉城)に入封、1632年に忠利は肥後熊本に転封した。その後小笠原忠知が入ったが、三河吉田に移封、家康の玄孫の松平英親が豊後高田から入封し、城北の平地に城を移した。松平氏は検地、法制の整備、灌漑事業、新田開発、畳表の苗の植林等を積極的に進めた。親賢は哲学者三浦梅園を登用、藩校を創設し家臣の教育に注力。幕末、外国船が相次いで寄港、意識を高めたが、親藩態度を堅持し、長州征伐に出兵したが最後は恭順した。 |