日本の城跡
岡城(別称:臥牛城)
略史 豊後の豪族大神氏の一族緒方惟栄は、兄の源頼朝と不和になった義経が惟栄を頼って西下してくるのを受けてここに保塁を造って待ったが、義経の船は大物浦の沖で難破し九州入りは果たせなかった。その後大友氏の一族志賀氏が城を築き、戦国時代に頭角を現し勢力を拡大した。そして戦国末期、キリシタンの洗礼を受けた弱冠十八歳ながら親次は、大友氏を破って押し寄せる島津氏の大軍を岡城に籠城しわずか1千人の兵で耐え抜き、逆に機をみて反撃して島津軍を打ち破った。しかし親次は大友氏の滅亡に準じて城を捨て福島正則の仕え安芸国に去った。次いで豊臣の臣、中川秀成が入城、中川氏は近世城郭に大改修すると共に風雅の香り高い小京都を目指して城下町の整備に注力、中川氏は関ヶ原を無事に乗り切り明治まで在藩した。幕府の銭座が城下古町に設けられ、藩領の尾平山銅山の銅で寛永通宝の鋳造が行われた。久貴の時増税目的の新法が施行され、これに反対する農民一揆が豊後一円に波及した。幕末豊後国の尊攘運動を主導し一部は倒幕の画策に奔走したが、藩論は日和見の姿勢をとり明治を迎えた。 |