日本の城跡

岡城(別称:臥牛城)

近戸門石垣
訪問日 H13年 9月、H14年 9月
ポイント 岡城は稲葉川と白滝川によって四周から深く隔離された、断崖絶壁の溶岩台地を利用した天然の要塞。中川氏は志賀氏時代の本丸の西方の天神山を切り開き、新しく本丸・二の丸・三の丸を、更に西の丸を増築して山城としては大規模な近世城郭とした。当時はまず城の登り口に立つことが最大の難事であり、大手門に至るのに壁を登るような小路しかなく、それすら樹木に覆われて迷路のようであった。加えて両側が100mを超える深い谷をなしている日本屈指の堅城である。
印象 日本三大山城の一つ。本当にすばらしい山城だ。累々とした高石垣群。山城の割に規模も大きい、すごい経済力だ。よくもこんな山にこんな石垣を造れたものと、ただ感激でしばしうっとりと見とれた。草むした石垣群が、あの滝廉太郎の「荒城の月」を生んだのだろう。翌年再訪。前回見逃した西の丸、家老屋敷跡、七曲道等見る。ただだた石垣群に圧倒された。次回は小京都と言われる城下町をゆっくり散策したい。
地図
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略史  豊後の豪族大神氏の一族緒方惟栄は、兄の源頼朝と不和になった義経が惟栄を頼って西下してくるのを受けてここに保塁を造って待ったが、義経の船は大物浦の沖で難破し九州入りは果たせなかった。その後大友氏の一族志賀氏が城を築き、戦国時代に頭角を現し勢力を拡大した。そして戦国末期、キリシタンの洗礼を受けた弱冠十八歳ながら親次は、大友氏を破って押し寄せる島津氏の大軍を岡城に籠城しわずか1千人の兵で耐え抜き、逆に機をみて反撃して島津軍を打ち破った。しかし親次は大友氏の滅亡に準じて城を捨て福島正則の仕え安芸国に去った。次いで豊臣の臣、中川秀成が入城、中川氏は近世城郭に大改修すると共に風雅の香り高い小京都を目指して城下町の整備に注力、中川氏は関ヶ原を無事に乗り切り明治まで在藩した。幕府の銭座が城下古町に設けられ、藩領の尾平山銅山の銅で寛永通宝の鋳造が行われた。久貴の時増税目的の新法が施行され、これに反対する農民一揆が豊後一円に波及した。幕末豊後国の尊攘運動を主導し一部は倒幕の画策に奔走したが、藩論は日和見の姿勢をとり明治を迎えた。
白滝川越しの遠望
総役所跡周辺よりの遠望
    登城坂・かまぼこ状の石垣
   
大手門跡へ
大手門脇の絶壁
大手門石垣
同礎石
旧大手門跡
家老屋敷跡
籾蔵跡
城代屋敷石垣
三の丸へ
同・西中仕切門跡
三の丸より御三階櫓台石垣
 
本丸石段
二の丸井戸
本丸
三の丸太鼓櫓門石垣
 
三楽亭跡
東中仕切門石垣と本丸御金倉石垣
同石垣
本丸石垣
東中仕切門石垣
清水門石垣
三楽亭跡・廟所方面
廟所跡
下原門方面・石垣
   
三の丸石垣
白滝川方面を見る
二の丸・三の丸石垣
断崖
二の丸石垣
西の丸東門石垣
家老屋敷跡
城門石垣
武家屋敷跡
西の丸から本丸方面
  
西の丸石垣
西の丸石垣
石造りの鯱
西の丸
籾蔵石垣
家老屋敷跡方面
家老屋敷跡
近戸門石垣
礎石・井戸
近戸門石垣
七曲道・絶壁