日本の城跡

高田城(別称:豊洲陣屋・高田陣屋)


石垣・登城坂
訪問日 H27年11月
ポイント 城は桂川が海に注ぐあたりの断崖上に位置する。西方は高差10mほどの崖となって周防灘に臨み、南方は高さ30mの断崖で桂川に臨んでいる。台地が続く北・東方面には曲輪と土塁・水堀で厳重に固めている。
印象 学校等公共施設になっていた。駐車させてもらう。川の崖の上に位置。遺構は石垣のみかと諦めかけたが、学校の周囲を廻っていたら、北・東側に水堀がしっかり残っていた。感激!現在は住宅地の中に埋もれているが、遠くから見ると、なるほど城の立地だと分かった。高田高校の方へもう少し足を延ばしていたら、しっかり残っている外堀も見られたのに、残念。
地図
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略史  高田城は鎌倉時代初期に大友氏の豊後下向に随従した高田重定が築城した。高田氏は代々大友氏の為に働き、南北朝期の争乱、大内氏との豊前争奪戦や島津氏との攻防戦等に出陣したが、大友氏の滅亡で高田氏の治世は17代、400年で終わった。豊臣秀吉は1593年、竹中半兵衛の子の重隆を入城させ、重隆は城の大改築を実施した。関ヶ原合戦が起きると、重隆は黒田孝高に従い、西軍に与する大友軍の拠点を攻撃、徳川家康はこの功により竹中氏を府内に移封した。城は30余年空城後、松平重直が龍王城から入城したが、在城7年にして杵築城に転封した。城はその後20余年、杵築藩預りとなった後に肥前島原藩主松平忠房が領し、高田城の本丸に陣屋(豊州陣屋)を構えた。

遠望

本丸虎口

石垣・登城坂

石垣

南側の崖

本丸

埋立てられた内堀跡

内堀


曲輪から本丸・土塁


内堀





校内にある島原領石碑