日本の城跡
臼杵城(別称:丹生島城・亀城・籠城)
略史 北九州の地を毛利氏と争っていた大友宗麟は門司・北部豊前の戦いで大敗した為、毛利氏の侵攻を食い止めるべく臼杵に城を築いた。その後宗麟は日向に出兵したが、島津義久らに高城で敗れ大友氏の勢力は弱体した。そして島津勢は本格的に豊前侵攻を開始し、臼杵城を包囲したが大砲の力で撤退を余儀なくされた。しかし宗麟はキリシタン文化の花開いた城下がは灰塵に帰してしまったショックから翌年病死し、後継の義統は文禄の役で失脚、領国没収となり大友氏は滅亡した。次に石田三成の妹婿福原直高が入城したが、3年後府内に移封となり代わって太田一吉が入封し、城郭の拡充、城下町の整備を実施し、今ある姿の基盤を作った。関ヶ原後、西軍に与した太田氏は改易され、稲葉貞通が入封し、兵火で荒廃した城下を復興し近世の城と城下町を完成、明治まで在藩した。貞通は大阪の陣、島原の乱に出陣、府内・島原城の城番を勤めた。景通は大溜池を拓いて一万国の新墾田を得た。城下町には唐人町、浜町等”町八町”と呼ばれる商人町が経済の中心地として賑わった。しかし財政は窮乏し始め、また農民一揆や打ちこわしが発生した。幾通の時、天保の改革を実施し、厳しい緊縮政策や家臣、農民の規制で再建した。幕末、鉄砲組の編成や台場を築造し多難な政局に当ったが無事、明治を向えた。ただ、西南の役では西郷軍の猛攻の前に一日で落城した。 |