日本の城跡
小倉城(別称:勝山城)
略史 戦国時代、中国地方の雄大内氏が滅亡すると、北部九州は毛利氏と大友氏が覇権を争った。毛利氏は小倉に城を築城して大友氏に対抗したが、大友氏方の立花城合戦に敗れ、小倉城は大友氏の高橋鑑種が入城した。その後大友氏は島津勢に圧迫され豊臣秀吉に援助を要請した。これを機に秀吉は九州平定戦を開始し、小倉城に吉川・小早川・黒田らを入城させて平定戦の拠点とした。平定後秀吉は側近の森吉成(後の毛利勝信)を入城させ、九州の押さえとして本格的な石垣を持つ織豊系城郭に改修した。関ヶ原の戦いでは西軍方の小倉城は黒田孝高に攻略されたが、徳川家康は論功行賞によって豊前には細川忠興を入部、中津城を居城とした。しかし隣国黒田氏・毛利氏への備えと水陸交通の便を考慮して小倉に本城を移し、七年を要して近世城郭と城下町を完成させた。細川氏が肥後熊本に転封後は、家康の曾孫・小笠原忠真が九州外様の監視役として入封した。忠真は家臣の俸禄制への変更や密貿易の取り締まりに注力したが、財政は窮乏し始めた。その為忠総の時、犬甘兵庫を登用して製造業・商業からの運上金の徴収や新田開発を推進した為財政は改善したが、その反動として御家騒動が勃発して失脚、財政は一層困窮した。また忠国の時には老中昇進画策に絡み、家老間の対立で家臣の大量出奔騒動が起きている。幕末、砲台の築造、大砲・砲弾の鋳造、農兵組織の推進等有事に備えたが、長州征伐には消極的であった。しかし長州藩の奇兵隊や藩兵が門司に上陸、一時は撃退したが、応援に来ていた熊本藩が撤兵した為、城に火をかけ香春に退却して藩庁を設置した。その後長州藩と和睦し、戊辰時は新政府軍に参陣して奥羽に出兵、明治には藩庁を豊津に移した。 |
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