日本の城跡

小倉城(別称:勝山城)

復興天守閣
訪問日 H24年 9月
ポイント 小倉は古くより関門海峡を押さえる水陸両面の交通の要衝で、古くから軍事・商業上の要地としても重要視された。城は柴川・板櫃川の両河川により形成された河口デルタの地形を縄張りに生かした。両河川を天然の堀とし、更に水を城内に引き込むことで水を巧みに利用した。柴川の河口左岸の台地に本丸を置き、これを松の丸・北の丸・二の丸・三の丸が囲み、城下町は貿易・軍事港の両面を持ち、柴川を隔てて東町と西町に分かれ、これを河口の大橋で連絡した。城と城下町は土塁と堀、海側は石垣で防備され、十か所の関門を持つ総構えになっている.。総構えは海に面して城下町をコの字に囲み、二Km四方もあった。敵の攻撃面である南西部分の構えは特に厳重で、複雑な塁線構造とし、執拗に横矢を掛ける工夫がされていた。
印象 35年ぶりの登城。福岡空港でレンタカーを借り、一路小倉へ。それにしても福岡周辺の高速道路は分りにくい。小倉の地下駐車場から地上に出ると、そこは城内だった。復元された天守、直線的石垣、水堀が見事。本丸石垣に沿って歩き、二の丸から本丸へ。連隊跡、綺麗に復元された大手門他門跡を通り、天守へ。次に多聞口門を通り八坂神社がある北の丸に。山門が良い、祇園太鼓の祭りには大変賑うそうだ。芸術劇場が建つ二の丸から見る天守も良い。そして外堀の役目を果たした柴川沿いで一休み。川を挟んで賑いのある街並みと共存、さすが細川氏の居城だった。
地図
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略史  戦国時代、中国地方の雄大内氏が滅亡すると、北部九州は毛利氏と大友氏が覇権を争った。毛利氏は小倉に城を築城して大友氏に対抗したが、大友氏方の立花城合戦に敗れ、小倉城は大友氏の高橋鑑種が入城した。その後大友氏は島津勢に圧迫され豊臣秀吉に援助を要請した。これを機に秀吉は九州平定戦を開始し、小倉城に吉川・小早川・黒田らを入城させて平定戦の拠点とした。平定後秀吉は側近の森吉成(後の毛利勝信)を入城させ、九州の押さえとして本格的な石垣を持つ織豊系城郭に改修した。関ヶ原の戦いでは西軍方の小倉城は黒田孝高に攻略されたが、徳川家康は論功行賞によって豊前には細川忠興を入部、中津城を居城とした。しかし隣国黒田氏・毛利氏への備えと水陸交通の便を考慮して小倉に本城を移し、七年を要して近世城郭と城下町を完成させた。細川氏が肥後熊本に転封後は、家康の曾孫・小笠原忠真が九州外様の監視役として入封した。忠真は家臣の俸禄制への変更や密貿易の取り締まりに注力したが、財政は窮乏し始めた。その為忠総の時、犬甘兵庫を登用して製造業・商業からの運上金の徴収や新田開発を推進した為財政は改善したが、その反動として御家騒動が勃発して失脚、財政は一層困窮した。また忠国の時には老中昇進画策に絡み、家老間の対立で家臣の大量出奔騒動が起きている。幕末、砲台の築造、大砲・砲弾の鋳造、農兵組織の推進等有事に備えたが、長州征伐には消極的であった。しかし長州藩の奇兵隊や藩兵が門司に上陸、一時は撃退したが、応援に来ていた熊本藩が撤兵した為、城に火をかけ香春に退却して藩庁を設置した。その後長州藩と和睦し、戊辰時は新政府軍に参陣して奥羽に出兵、明治には藩庁を豊津に移した。
復興天守 本丸石垣・米蔵曲輪跡 復興天守・内堀 大手門口方面
大手門口 松の丸・白州燈台 三の丸跡(中央図書館等) 勘定場・米蔵跡
松の丸石垣 三の丸跡(勝山公園) 二の丸から西の口門跡 二の丸と本丸間の堀 同反対側の松の丸石垣
西の口門跡
松の丸(歩兵12旅団司令部跡)
松の丸井戸跡
本丸鉄門跡
槻門跡
大手門口 大手門跡   
本丸櫓台跡
天守台石垣
天守続櫓
本丸 本丸塀跡
本丸着見櫓
二の丸と本丸間の堀
本丸の歩兵榴弾砲 天守閣絵図
天守より下屋敷庭園
厩・下屋敷跡
下屋敷庭園・厩・米蔵跡 米蔵跡・本丸・松の丸・三の丸方面  北の丸(左)・下台所(右) 北の丸
多聞口門跡 着見櫓 着見櫓・北の丸門跡 着見櫓台石垣 多聞口門石垣
本丸と北の丸間の水堀 本丸と北の丸間の空堀    八坂神社鳥居・着見櫓 八坂神社山門
八坂神社本殿
北の丸と二の丸間の堀 同反対側の堀
北の丸と下台所間の水堀・天守閣
北の丸(八坂神社)
二の丸と下台所間の水堀
天守閣
下台所・水堀 下台所・下屋敷庭園
下屋敷庭園 虎の門跡・下屋敷庭園 柴川・東町方面 柴川側から厩・下屋敷方面 下屋敷跡(庭園)