日本の城跡
中津城
略史 九州を平定した豊臣秀吉は豊前に黒田如水を入れ、如水は山国川に臨む丸山の地に築城を開始した。この地の領主であった宇都宮鎮房は伊予に転封を命じられたが、鎮房は源頼朝から守護職に任ぜられた父祖伝来の領地の明け渡しを拒否し、城井谷の城井郷城に籠城した。如水の子、長政は毛利の援軍と共に2万の大軍で攻撃したが、天険を利した堅城で攻略できず、鎮房の娘を長政の妻に向かえることで一旦、和睦したが、後に中津城で鎮房を謀殺した。築城を開始した如水であったが、その後の小田原攻め、朝鮮出兵、関ヶ原の役等々で城の完成を見ないままその軍功で福岡藩に転封となった。次に丹後田辺城から細川忠興が入封したが、忠興は小倉に移り、子の忠利が城主となった。しかし忠興が忠利に家督を譲ると、中津城はその隠居城となった。一国一城令がしかれた後も、支城として存続が認められ、この頃より忠興が本格的に築城を開始し、6年後に完成を見た。1632年細川氏は熊本に移封、替って龍野から小笠原長次が入封、城下町を完成させたが、歴代藩主が豪勢な生活や家中の富家の財産や神社領地の没収等の悪政から藩財政は悪化した。次に奥平昌成が入封し倹約令、綿、製蝋業等商業の保護育成をしたが、旱魃や虫害による大凶作に苦しんだ。幕末、一次・二次長州征伐に出兵、また徳川慶喜追討の議が起きると、津山・高田藩と共に、朝廷に哀訴嘆願した。 |