日本の城跡

時枝城


城碑
訪問日 H27年11月
ポイント 県道656号線と県道629号線の交差点の空き地に城碑があり、この付近にあったが、遺構はない。但し、資料によると近隣の糸口小学校も城跡の一部で、そこに土塁が一部残っているとのこと。
印象 駐車場とコンビニがあり、城らしき遺構は見つからなかった。糸口小学校まで行かなかった、残念。
地図
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略史  1400年頃、大内氏が宇佐神宮に1600町歩寄進し、そのうち1000町歩を増永氏が、残り600町歩を山下玄蕃が支配した。しかし玄蕃に人望が無く追放され、その後に山城国慶安寺の子の惟光が下国して時枝氏と称した。1556年、時枝鎮継の時、大友義鎮に降り配下となったが、密かに毛利氏と通じ、土井城主佐野親重と結託して大友方の光岡城を落とした。その為大友方の高家城主中島統次に時枝城を攻め落とされ、鎮継は小早川氏を頼り落ち延びた。1587年、豊臣秀吉の島津征伐で黒田高孝を宇佐郡に導いた鎮継は、中島統次を黒田軍の援護を受けて攻め滅ぼした。その後時枝氏は黒田氏の家臣となり、黒田氏の筑前福岡への転封に従って移り、城は廃城となった。

遠望

糸口小の土塁跡(博物館資料)