日本の城跡
人吉城(別称:相良城・織月城・三ケ月城)
略史 もとは平頼盛の城代で矢瀬主馬助の館であった。そこへ源頼朝の命を受けた相良長頼(下相良氏の祖)が下向し、矢瀬氏に退去を迫ったが拒否された為、在地土豪の平河氏の助けを得て矢瀬氏を殺害し入城した。相良氏は早速城の修築、鎌倉幕府より人吉荘の地頭に任ぜられ、代々の相良氏の居城とした。上相良氏など内部抗争を乗り切り、戦国時代には相良氏の勢威は大いに振ったが、島津氏の勢力の北上に伴い、その支配下にはいった。十八代義陽の時、城の大改修に取り掛かったが、途中で討死した。豊臣秀吉の九州征伐に際して長毎は逸早く臣従、関ヶ原では西軍から東軍に寝返り辛くも本領安堵された。その間近世城郭として工事を進め、ようやく八十年後の頼寛の時に完成した。頼喬の時、城下に水路が開かれ物流に多大な貢献をしたが、その後の天災や幕命による負担から財政は悪化の一途をたどった。幕末、頼基の時城下の火事により城内の武器の大半が焼失、また洋式の軍制改革を進める家老が惨殺される等多難であったが、戊辰時は勤王派が主導権を握り薩摩藩と会津攻撃に参戦した。 |