日本の城跡
熊本城(別称:銀杏城)
略史 この茶臼山に最初に城を築いたのは肥後国守護菊池氏の一族出田秀信で、千葉城ある。次いで勢力を伸ばしてきた鹿子木親員が新城の隈本城を築いた。その後娘婿の城親賢が譲り受けたが、次のじだいには島津氏の支配下になった。豊臣秀吉の九州征伐後、肥後一国は佐々成政に与えられたが、強引な施政が国人衆の反発を招き一揆が勃発、秀吉は成政の失政を咎め切腹を命じた。この後に加藤清正と小西行長が肥後を二分して領有し、隈本城、宇土城に入城した。関ヶ原で行長は敗死し、清正が肥後一国の太守となり、隈本城の大改築に着手し六年後に完成、熊本城と命名された。四年後清正は死去し嫡子忠広が後継となったが、大納言忠長絡みの陰謀の嫌疑をかけられ、出羽庄内に配流となった。幕府の豊臣恩顧の大名取りつぶし策の犠牲になったとも言われる。次に小倉から細川忠利が入封、忠利は小物成の一年間免除や手永制による農村支配を行い、また藩政は家老による合議制で運営された。綱利の時江戸風の文化が入り水前寺庭園が出来、相撲がもたらされたが、財政も悪化した。藩主宗孝が人違いから江戸城内で板倉勝該に惨殺される事件も起きた。次の重賢は藩政改革の為質素倹約を旨とし、行政機構の改革や刑法典の作成、藩校を創設する一方、櫨・蝋の専売や陰田畑の摘発等収入増加を図った。一時改善した財政も天明の飢饉以降悪化し、有明海沿岸の干拓や土木事業等実施したが根本的な改善はみなかった。斉護の時、横井小楠が台頭し、藩政に朱子学の道理の実践を迫ったが受け入れられず小楠は福井藩に招かれた。幕末京都守護や長州征伐に出兵したが、中途半端な姿勢に終始した。 |