日本の城跡

熊本城(別称:銀杏城)

本丸大天守・小天守
訪問日 S40年 8月、H13年 9月
ポイント 熊本城は日本三名城の一つであり、他が天下普請であるに対し唯一の大名単独築城である。「扇の勾配」といわれる弓状にカーブを描く石垣上に七層の大天守と五層の小天守、四十九の櫓、十八の櫓門、二十九の城門を擁し、実戦的な縄張りを施した梯郭式城郭である。そして坪井川を内堀に、白川と井芹川を外堀とする天然の要害。大天守閣には「昭君の間」が設けられた。更に天守内部より坪井川まで通じた地下の抜け道も用意された。これはいざという時豊臣秀頼を迎え、徳川方と一戦交える覚悟を示したものといわれる。
印象 縄張り、高石垣、空堀、櫓等すばらしい。天下の城だ。遺構も多く残り,一日では見切れない。白亜の姫路城と異なり、全体的に黒っぽく、また実戦的な縄張りでがっしりとしている。西南戦争の時、兵数・武器共に勝った西郷率いる薩摩軍の猛攻を、少数の谷干城指揮する鎮台兵が耐え抜いき、天下に難攻不落の名城を明治になって実証したが、自分も城に立ち納得した。城は内部の裏切りがなければ落ちないものだ。熊本城は市のシンボルとして市民に愛されているのが肌身に感じられた。御殿他を復元中、楽しみだ。
地図
地図をクリックすると拡大します

略史  この茶臼山に最初に城を築いたのは肥後国守護菊池氏の一族出田秀信で、千葉城ある。次いで勢力を伸ばしてきた鹿子木親員が新城の隈本城を築いた。その後娘婿の城親賢が譲り受けたが、次のじだいには島津氏の支配下になった。豊臣秀吉の九州征伐後、肥後一国は佐々成政に与えられたが、強引な施政が国人衆の反発を招き一揆が勃発、秀吉は成政の失政を咎め切腹を命じた。この後に加藤清正と小西行長が肥後を二分して領有し、隈本城、宇土城に入城した。関ヶ原で行長は敗死し、清正が肥後一国の太守となり、隈本城の大改築に着手し六年後に完成、熊本城と命名された。四年後清正は死去し嫡子忠広が後継となったが、大納言忠長絡みの陰謀の嫌疑をかけられ、出羽庄内に配流となった。幕府の豊臣恩顧の大名取りつぶし策の犠牲になったとも言われる。次に小倉から細川忠利が入封、忠利は小物成の一年間免除や手永制による農村支配を行い、また藩政は家老による合議制で運営された。綱利の時江戸風の文化が入り水前寺庭園が出来、相撲がもたらされたが、財政も悪化した。藩主宗孝が人違いから江戸城内で板倉勝該に惨殺される事件も起きた。次の重賢は藩政改革の為質素倹約を旨とし、行政機構の改革や刑法典の作成、藩校を創設する一方、櫨・蝋の専売や陰田畑の摘発等収入増加を図った。一時改善した財政も天明の飢饉以降悪化し、有明海沿岸の干拓や土木事業等実施したが根本的な改善はみなかった。斉護の時、横井小楠が台頭し、藩政に朱子学の道理の実践を迫ったが受け入れられず小楠は福井藩に招かれた。幕末京都守護や長州征伐に出兵したが、中途半端な姿勢に終始した。
瀬戸口門
同・桝形虎口・平御櫓台石垣
田子櫓・七間櫓・十四間櫓・四間櫓
    源之進櫓
   
桝形虎口
四間櫓
東竹の丸
東十八間櫓
東竹の丸
搦手虎口の不開門・五間櫓
午砲台石垣・櫓群
同・本丸桝形石垣
  
本丸虎口
本丸へ
     天守・忍び返し・傾斜の異なる石垣
    大天守・御殿工事現場・谷少将像
      
天守閣脇から抜け道へ
    
   
    本丸空堀
  
    小天守
くらがり門石垣
 
平左衛門丸より本丸大・小天守
  
頬当御門から宇土櫓
平左衛門丸宇土櫓・続櫓・隅櫓
天守閣群
数寄屋丸二階御広間
宇土櫓・続櫓・隅櫓・大天守
同空堀
傾斜の異なる石垣
石垣越しの天守
平櫓・石垣群
不開門坂
平櫓・井戸
東十八間櫓・北十八間櫓
五間櫓・石垣
十四間櫓・七間櫓
長塀
以下40年撮影