日本の城跡
原城(別称:志自岐原の城・有馬城・日暮城・春の城)
略史 領主有馬氏は藤原純友六代の後裔の藤原経澄を祖とする。経澄は源頼朝から有間荘の地頭に補され、下向し有間村(後の有馬)に館を構え有間(有馬)氏を名乗った。その後室町期まで島原半島には多くの土豪が割拠したが、戦国期に入り九代貴純が勢力を拡大して半島を制圧した。原城はこの時期に日之江城の支城として築かれたが、有馬氏は十一代晴純の時代が全盛期で、その後次第に衰退していった。十四代晴信はキリシタン大名としてキリスト教の保護を図り、同時に御朱印船貿易において多大な利益を挙げた。しかし岡本大八事件に絡み処刑、次の直純は領内体制の不備から延岡に転封となり有馬氏の支配は終わった。一時幕領後、松倉重政が大阪の陣の軍功で加増入封、原城・日之江城を廃城し藩領の中心である島原に両城の石垣・塀等を活用して新城を築城した。しかし築城の課役、島原・天草(唐津藩寺沢家の飛地)領民への過酷な取立て、キリシタン弾圧が原因となり島原・天草の乱が勃発、キリシタンと農民は島原城を襲撃したが果たせず、天草四郎時貞を総大将に二万数千人が廃城だった原城に籠城した。幕府軍は板倉重昌を上使として派遣し、九州諸藩による討伐軍を指揮して包囲攻撃した。しかし幕府軍の戦意は低く、統率も取れず失敗に終わった為幕府は新しい上使として老中松平信綱の派遣を決定、焦った重昌は再度の総攻撃で強引に突撃して討死し、攻撃は四千人以上の死傷者を出して失敗した。新たに着陣した松平氏は九州諸大名を中心に大動員をかけ、十二万人以上の軍勢で陸と海から八十八日間包囲した。そして最後の総攻撃を決行、飢えた一揆軍は全滅したが、幕府軍側も松倉・寺沢両家が責任を問われて断絶となった。その後幕府は原城を徹底的に破壊、更に九州一円の廃城を見直し、再度の破壊を命じた。 |
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