日本の城跡
平戸城(別称:亀岡城・朝日嶽城・玄武城)
略史 松浦氏の始祖、源 久の嫡男の直の第五子、披が平戸松浦氏の祖となる。戦国期、一族の中で平戸松浦氏と相神浦松浦氏が勢力を二分したが、平戸松浦隆信が相神浦松浦氏を飯盛城を攻め滅ぼし、松浦党主の地位を確立した。隆信の嫡子鎮信(初代)は豊臣秀吉の九州征伐に協力し、松浦郡の一角と壱岐を安堵された。文禄・慶長の役から帰国した鎮信は、廃城となった名護屋城の資材の一部を利用して、1599年に現在の平戸城の地に日之嶽城を築城した。しかし徳川時代になり、鎮信は秀吉との親交等から幕府による改易取りつぶしを恐れ、1608年自ら城に火を放ち焼き捨ててしまった。以後鎮信は百年近く、私邸と藩庁と兼用の「中の館」、「御館」に移った。五代藩主棟が外様ながら寺社奉行に抜擢され幕府との結びつきが強まった。城主大名にもかかわらず、城を持たない松浦氏はようやく幕府に築城を申請、1703年に許可が下り日之嶽城の地に再建された。城は鎮信と親交のあった山鹿素行が設計し、弟の山鹿義昌が指導した。さて、鎮信は和蘭・英国との貿易で富を蓄えたが、キリシタン政策から商館が長崎に移された為大打撃を受けた。四代鎮信は財政の基礎を地代に転換、蔵米地の拡大、小農民の保護、俸禄制へ転換、総検地の実施、商漁業の振興等を推進した。次の棟は寺社奉行に昇進したが、支出拡大から財政は悪化、この時平戸城が完成した。清は人事刷新、殖産、新田開発、藩校創設による武芸・学問の普及等藩政改革を実施した。幕末、外圧に対する防備強化から大銃隊の編成、台場を築造し洋式操銃を訓練した。また大村藩と同盟を締結し、公武合体策を推進したが、次第に尊王・倒幕に傾斜、鳥羽伏見、奥羽征討に洋銃隊を派兵した。 |
表紙の50年前
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北虎口石垣 | ||
同内井戸・地蔵坂櫓 | ||||
同 | 本丸石垣 | |||
懐柔櫓・平戸大橋 | 御館、手前に舟入り | 御館 | ||
見奏櫓 | ザビエル記念教会 | |||
同 | 同50年前 | 平戸瀬戸 | 乾三重櫓 | 同 |
石蔵 | 二の丸 | 二の丸御殿入口の社 | 二の丸大手門手前の建物跡 | |
同付近の石垣 | 二の丸大手門 | 同 | 同 | 二の丸と三の丸方面の分岐地 |
二の大手門へ | 二の大手門 | 同桝形、一の大手門へ | 一の大手門 | 同 |
同 | 同 | 同 | 同付近 | 同から大手口方面 |
同付近の土塁 | 同 | 大手口 | 同 | |
同の前の石碑 | 二の丸付近 | 方啓門跡 | 同 | |
同 | 同 | 同 | ||
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三の丸・乾三重櫓 | |||
幸橋 | 同50年前 | |||
オランダ井戸 | 復元オランダ商館跡 | オランダ塀 | ||
同 | 同50年前 | オランダ塀前の恵比須大明神 | ||