日本の城跡

梶谷城(別称:勝谷城)

本丸石垣・二の丸
訪問日 H24年 9月
ポイント 城は伊万里湾を見下ろす今福城山に築かれ、山頂部からの眺望は雄大である。北方は伊万里湾を隔てて、福島からさらに壱岐・対馬を望み、西方は志佐・田平からさらに平戸島を経てはるか五島列島まで視界に入る。この眺望と位置に秀吉は目を付け、朝鮮出兵に備え、対馬・壱岐・平戸を結ぶ要衝として近世城郭に改修された。城は山頂の本丸と一段低い二の丸が付属する単純な構造。東側は急斜面と懸崖とで伊万里湾に没して防備は固い。従って比較的傾斜が緩やかな西側に複雑な作りの大手門・二の丸・副郭・石垣で固め、更に石壁・石塁・門・石垣で造られた館が配置されていた。
印象 途中に大きな駐車場があるが、細い道を山頂まで車で行く。二の丸に駐車。そこに立派な石垣が残る。本丸へ登ると一段高く物見台、二方に櫓台が配置されていた。ここからの見晴らしが噂通りすばらしい。360度全方位だ。夏草の中に石垣が所々残り、大手門・西櫓台があった。冬に来ればもっと全容が分ったろうに、残念。大規模な館跡には行けなかった。
地図
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略史  延久元年(1069)、源 久が摂津国から下向して土着し、梶谷城を築城した。そして定住した武士が松浦氏を名乗り、平氏、源氏に従い一族の多くは地頭・御家人になった。松浦一族は南北朝期以降、近隣領主や一族間の内紛に明け暮れたが、永禄九年(1566)に平戸松浦隆信が総領家の相神浦松浦氏を滅ぼし、戦国大名化を遂げた。この間梶谷城は平安末期に松浦氏の居城となって以降、松浦氏の勢力拡張に伴い本城から支城に転じ、更に戦国期に平戸松浦氏の統一に伴い、また支城になったが絶えず城郭として利用されてきた。豊臣秀吉の大陸への野望で名護屋城築城に伴い、梶谷城は豊臣軍によって近世城郭に修築されたが、徳川時代に入り、一国一城令で廃城となった。更に島原の乱後の幕府の破城によって、特に天守台および本丸西側部分は石垣が原形を留めないほど徹底した破壊にあっている。
二の丸 同土塁  
本丸石垣
同残骸 本丸、奥に物見台
 同東櫓台跡・福島方面
伊万里湾と福島方面 東側石塁
本丸物見台
本丸 同石塁 同虎口、本丸大手門へ
同虎口の石塁
同から西櫓台方面
伊万里湾と岸岳城山
本丸物見台から二の丸方向
本丸石塁
本丸石垣西側から
伊万里湾
二の丸西虎口・石塁
二の丸石塁
同石塁残骸
  二の丸石塁跡
二の丸下の副郭
遠望