日本の城跡
唐津城(別称:舞鶴城)
略史 寺沢広高は豊臣秀吉の側近として朝鮮の役の時、名護屋に従軍し後方兵站の長として活躍。秀吉から唐津を拝領し、文禄の役後入部し唐津の南、東松浦郡北波多村に居を構えた。慶長の役後名護屋城も受領したが、関ヶ原の役で東軍に属した為所領を安堵され、十三年かけて名護屋城や岸岳城らから用材を調達、更に九州の諸大名の手伝い普請を受け唐津城を築城した。次の堅高の時島原の乱が勃発、その責めで減封、嗣子無く断絶廃藩となった。幕領後大久保忠職が入封、以後唐津藩は九州の外様の監視役となる。転封後大給松平乗久が、次に土井利益が入封し儒教を基本とした文教政治を推挙し領内に民間塾を開いた。次に水野忠任が入封したが、財政は極度に逼迫、過酷な年貢増徴収策を取った為大規模な一揆が発生、藩の敗北に終わっている。忠邦は幕閣昇進を狙い浜松藩に国替えを実現、後に老中として天保の改革を行った。この国替えには一万石の上知が条件で、更に転封費用等の為、次の小笠原氏の財政は窮乏し、献金、人頭税の賦課、楮・干鰯の専売、石炭・捕鯨事業を促進したが改善できなかった。最後の藩主長国は四代前の藩主長昌の嫡男長行を養嗣子としたが、長行は農兵の制や海防策で名を挙げ、老中格に昇進、一橋慶喜派の為に一旦罷免されたが再任、長州征伐、外国事務総裁として兵庫開港等活躍した。その後老中を辞職、奥羽列同盟成立と共に会津へ、更に五稜郭で新政府軍と戦った。新政府は唐津藩討伐も計画したが、長国が恭順、石炭を献上し許しを得た。 |