日本の城跡

唐津城(別称:舞鶴城)

松浦川からの遠望
訪問日 H24年 9月
ポイント 城は満島山の山頂を本丸とし、二の丸、三の丸、外曲輪へと低くのびる連郭式平山城である。それまで満島山の西側を流れていた松浦川を波多川と合流させ、東に切り替えて陸続きであった虹の松原を切り離し築かれた。結果、三方海に囲まれた浮城に見える。本丸は天守台を中心に、二の曲輪と二の丸の石垣の二重の石垣で守られている。また主要な隅には櫓を配置し、半島全体の麓には海沿いを巡って高石垣が築かれ、舟入り門や水手門が構築されている。山の南麓に二の丸があり、長方形に囲った石垣の中に御殿が設けられていた。更に堀を挟んだ南側に三の丸と武家屋敷群で固めている。
印象 50年ぶりに訪問。海に突き出した小高い山にあり、模擬天守がすばらしい。(実際は天守閣は無かったらしい)石段を登り、櫓群跡を通り、本丸へ。ここの藤棚は評判らしい。残念なことに天守閣は改修中であったので、その周辺をざっと見て降りたが、石垣群がすばらしかった。麓の二の丸に御殿があったが、今は学校に。石垣は立派に残っている。二の丸の一部や三の丸は学校、住宅、街並みになっているが、要所、要所に石垣・堀・櫓が再建され、城下町を大切にしているようだ。また唐津銀行の建物、唐津神社等々街の雰囲気もよかった。
地図
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略史  寺沢広高は豊臣秀吉の側近として朝鮮の役の時、名護屋に従軍し後方兵站の長として活躍。秀吉から唐津を拝領し、文禄の役後入部し唐津の南、東松浦郡北波多村に居を構えた。慶長の役後名護屋城も受領したが、関ヶ原の役で東軍に属した為所領を安堵され、十三年かけて名護屋城や岸岳城らから用材を調達、更に九州の諸大名の手伝い普請を受け唐津城を築城した。次の堅高の時島原の乱が勃発、その責めで減封、嗣子無く断絶廃藩となった。幕領後大久保忠職が入封、以後唐津藩は九州の外様の監視役となる。転封後大給松平乗久が、次に土井利益が入封し儒教を基本とした文教政治を推挙し領内に民間塾を開いた。次に水野忠任が入封したが、財政は極度に逼迫、過酷な年貢増徴収策を取った為大規模な一揆が発生、藩の敗北に終わっている。忠邦は幕閣昇進を狙い浜松藩に国替えを実現、後に老中として天保の改革を行った。この国替えには一万石の上知が条件で、更に転封費用等の為、次の小笠原氏の財政は窮乏し、献金、人頭税の賦課、楮・干鰯の専売、石炭・捕鯨事業を促進したが改善できなかった。最後の藩主長国は四代前の藩主長昌の嫡男長行を養嗣子としたが、長行は農兵の制や海防策で名を挙げ、老中格に昇進、一橋慶喜派の為に一旦罷免されたが再任、長州征伐、外国事務総裁として兵庫開港等活躍した。その後老中を辞職、奥羽列同盟成立と共に会津へ、更に五稜郭で新政府軍と戦った。新政府は唐津藩討伐も計画したが、長国が恭順、石炭を献上し許しを得た。
東側大手登城坂 同・櫓台 同・櫓台
採石跡の登城坂石段 本丸二の曲輪石垣
大手虎口へ
大手桝形虎口・門跡礎石
本丸二の曲輪への石段・藤棚
本丸二の曲輪
同から松浦湾 同から虹の松原方面 同から模擬天守 同から一の門・茶室櫓・藤棚 模擬天守
二の曲輪・井戸 一の曲輪石垣・一の門・茶室櫓 模擬天守 一の門・茶室櫓
松浦川
三の丸方面
亀頭櫓・北門
本丸一の曲輪西門(修理前)
城碑
   50年前の本丸城碑
同の本丸
二の丸御殿跡 同石垣
二の丸御殿跡・石垣
坂口門跡
舟入門跡周辺
松浦川越しの遠望
腰曲輪石垣
腰曲輪
二の門掘(薩摩堀)
二ノ門跡
二ノ門周辺から遠望
二の丸脇櫓台
松浦川
時の太鼓
三の丸辰巳櫓
唐津銀行脇の三の丸石垣 唐津銀行 大手門周辺 唐津神社
三の丸南西堀(肥後堀)・石垣
三の丸南西隅櫓 埋門跡