日本の城跡

名護屋城(一部大名陣屋含む)

本丸大手門跡
訪問日 H24年 9月
ポイント 遠く朝鮮半島を北西に望む東松浦半島北端に位置する玄界灘に突き出した、波戸岬の丘陵上を中心として築かれた。東西両側に名護屋湾と串浦の二つの入り江を控え、千余艘の船が安全に出入りできる海上水運をフルに利用した城。この地に桃山の粋を尽くした五層七階の天守をはじめ、本丸・二の丸・三の丸・弾正丸・東出丸・山里丸・遊撃丸・水手曲輪などで構成され、城門は五ヶ所設けられた。秀吉の私的空間であった山里丸は淀君はじめ美女達が妍を競ったところである。秀吉が名護屋城に在陣した期間は一年三ヶ月であったが、名護屋に待機した兵力十万余、朝鮮へ出陣の軍勢二十万余、総勢四十万弱の大動員で当時としては世界最大の軍事行動であった。
印象 是非とも来たかった城。期待通りすばらしく、大きな城だ。水の手口から入る。三の丸・出丸・大手門を見て本丸へ。石垣・土塁・井戸・櫓台等残る。本丸は大きく、見晴らしは抜群。その一角に天守台があり、そこに五層七階の堂々たる天守があったらしい。その後馬場・弾正丸・二の丸・遊撃丸を見る。本当に強固な城で、よくも作ったものだ。秀吉の大陸への思いの本気度が分かったが、同時にV字型に破却された石垣、本丸に立つ句碑を見ると”つわものどもの夢の跡”が偲ばれた。次に太閤井戸、石垣で固められた山里丸を見る。大きな外堀も残っていた。最後に各大名の陣屋跡を駆け足で見て回った。一日掛けてみなければいけない城だった。反省。
地図
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略史  豊臣秀吉は後北条氏を滅ぼし名実ともに日本の支配者になると、大陸出兵をめざし天正十九年、加藤清正と寺沢広高を普請奉行としてに肥前名護屋に出征用の陣城の構築を命じた。この地一帯は水軍松浦一党が支配し、同地には名古屋氏の居城・垣添城があった。工事は九州諸大名による「割普請」で行われ、五ヶ月後には総石垣作りで五重天守をもつ十七万uにも及ぶ大城郭の大部分が完成した。更に名護屋城の周囲には諸将の陣屋120余が築かれ、常時20万人ほどが滞在する大都市となった。しかし豊臣秀吉が没すると、七年に及ぶ文禄・慶長の役は終止符が打たれ、名護屋の地は城も城下町も消え、再び寒村に戻った。関ヶ原の役後、この地を領有した寺沢広高は名護屋城の用材を転用する等して唐津に新城を築いた。更に島原の乱後の破壊令によって、残った石垣も徹底的に破却された。
水手口からの登城口 同石垣 水手口 船手口方面
水手曲輪石垣
右本丸石垣・同北虎口
 本丸石垣・右水手曲輪
右三の丸方面、左本丸北虎口方面
本丸北虎口
本丸北虎口石垣 左上山里丸石垣
三の丸腰曲輪虎口
同腰曲輪
同から本丸北虎口石垣 同から三の丸方面・本丸石垣
同腰曲輪から三の丸虎口へ
大手道、右三の丸土塁・虎口
東出丸・櫓台 同から街並み
東出丸
同から櫓台・本丸方面
同から大手門方面 同から名護屋城博物館方面 同から大手門・三の丸方面 大手門跡
   三の丸たら口 同を三の丸から
三の丸、右は腰曲輪
三の丸
三の丸・腰曲輪石垣 同井戸
同櫓台
三の丸石碑・本丸大手虎口 本丸大手虎口
本丸碑
本丸櫓台跡
南西角櫓台跡
多聞櫓台跡
本丸より下の馬場・外郭
同より馬場櫓台
同より二の丸方面
同より二の丸・遊撃丸方面
同より遊撃丸
同より遊撃丸から水手曲輪への通路
同より本丸北口方面、左は水手曲輪
同より弾正丸方面
本丸秀吉句碑
本丸多聞櫓跡、天守台
天守台跡
 同より呼子大橋方面
本丸
同城碑
本丸内側石垣
本丸大手虎口石垣
 三の丸櫓台・本丸石垣
同を内側から、奥は三の丸櫓台跡
三の丸櫓台
伝馬場
同から城下の溜池
同より弾正丸方面
 伝馬場横の本丸石垣
同破却された石垣
伝馬場櫓台
伝馬場・弾正丸北虎口櫓台
同櫓台
同虎口石垣
同虎口を内側から
弾正丸
同内にある浄水場
弾正丸
搦め手口
本丸櫓台跡・石垣
二の丸・石垣・長屋跡
二の丸合坂
二の丸石垣・合坂
二の丸石垣・船手口
同船手口
二の丸、左遊撃丸石垣
本丸石垣、天守台方面
遊撃丸虎口
遊撃丸
本丸天守台
水手曲輪への遊撃丸虎口
遊撃丸石垣
本丸下の腰曲輪
水手曲輪
同の井戸跡
本丸石垣
 本丸石垣・北虎口方面
外堀
同・台所丸
台所丸・太閤井戸
上山里丸石垣
同広沢寺虎口
山里丸
山里口
下山里丸方面
遠望
石田三成陣屋跡遠望 立花宗茂跡陣屋
堀秀冶陣屋跡
前田利家陣屋跡
豊臣秀保陣屋跡