日本の城跡
名護屋城(一部大名陣屋含む)
略史 豊臣秀吉は後北条氏を滅ぼし名実ともに日本の支配者になると、大陸出兵をめざし天正十九年、加藤清正と寺沢広高を普請奉行としてに肥前名護屋に出征用の陣城の構築を命じた。この地一帯は水軍松浦一党が支配し、同地には名古屋氏の居城・垣添城があった。工事は九州諸大名による「割普請」で行われ、五ヶ月後には総石垣作りで五重天守をもつ十七万uにも及ぶ大城郭の大部分が完成した。更に名護屋城の周囲には諸将の陣屋120余が築かれ、常時20万人ほどが滞在する大都市となった。しかし豊臣秀吉が没すると、七年に及ぶ文禄・慶長の役は終止符が打たれ、名護屋の地は城も城下町も消え、再び寒村に戻った。関ヶ原の役後、この地を領有した寺沢広高は名護屋城の用材を転用する等して唐津に新城を築いた。更に島原の乱後の破壊令によって、残った石垣も徹底的に破却された。 |