日本の城跡
大村城(別称:玖島城)
略史 大村氏の祖直澄は藤原純友の孫である。994年に大洲から大村に下向して大村氏を名乗った。鎌倉期に地頭、在地領主として勢力を伸ばし、戦国期には有馬氏から大村純前の養子となり、家督を継いで十八代当主となったキリシタンの純忠は、長崎でのポルトガル船との貿易で勢力を拡大した。純忠は玖島北方に山城の三城城を築いたが、豊臣秀吉に長崎を没収され打撃を受ける。次の喜前は豊臣秀吉の九州征討に参戦して本領を安堵され、新城築城に乗り出した。喜前は山城の不便さ、朝鮮出陣での経験から海に囲まれた要害の地の玖島崎に決定した。一方キリシタンの洗礼を受けた喜前であったが、秀吉のバテレン追放令などを受け、徐々に信仰を離れ法華宗徒となった。1599年に大村城は完成したが、喜前はキリシタン迫害の報復によるものか、1616年に城中で毒殺された。これより先、喜前は関ヶ原の役で家康方に寝返り本領を安堵されたが、長崎は返還されず財政は悪化した。喜前は領内総検地を実施、次の純頼も一族一門の知行地没収、他方蔵米地の拡大等で窮乏を克服した。純長の時、隠れキリシタンが大量に発覚したが、幕府に恭順の意を示して危機を脱した。その後大飢饉もあったが、甘藷の普及で凌ぎ、殖産興業策として松島炭鉱の開鉱、陶器業の奨励をし、他方藩校を創設して家臣の教育に務めた。幕末、尊王・佐幕の軋轢はあったが勤王として統一、戊辰時には江戸城無血開城、彰義隊討伐、会津城攻めに功績を挙げた。 |
角掘跡 | 同 | |||
大手口櫓台 | 穴門 | 同・剣術指南役斎藤歓之助碑 | ||
大手口前の家士屋敷跡 | 大手口 | 同 | 同 | |
外堀のかりかと川 | 大手口から二の郭へ | 同、鈎型に | ||
同上から | 二の郭へ、本丸石垣 | 本丸台所口・二の郭方面 | 同・馬郭方面 | 本丸石垣 |
二の丸屋敷跡 | 二の郭南屋敷跡と板敷櫓間の堀切 | 同 | 三の郭間の空堀 | |
南屋敷跡・板敷櫓 | 二の郭土塁跡 | 本丸石垣 | 同虎口門と石垣下門 | 同虎口門 |
本丸へ | 同大村神社 | 本丸搦手口門跡方面 | 本丸石垣・土塀 | 同 |
同 | 本丸・稲荷神社 | 藩主御居館跡 | 搦手口門跡 | 同石垣 |
同 | 同 | いろは坂門跡 | 同 | 同 |
二の郭と三の郭間の空堀 | 同空堀土塁 | 同 | 同空堀 | 同 |
同 | 新蔵跡の井戸 | 新蔵波戸 | 大村湾 | 御船蔵方面 |
御船蔵 | 同・梶山御殿方面 | 御船蔵 | 同・後方は粮米蔵屋敷跡 | 御船蔵 |
新蔵波戸から三の郭方面 | 同から二の郭方面 | 板敷櫓下から家士屋敷跡 | 家士屋敷から板敷櫓・石垣 | |
長堀跡から本丸方面 | 角掘から本丸方面 | 角掘石垣跡 | ||
藩校集義館跡(後に静寿館、更に五教館) | 同 | 同にある大村連隊司令部碑 | ||
藩校五教館御成門 | 同地にある大村小学校 | 武家屋敷街案内 | 本小路 | 武家屋敷街 |
同 | 大村騒動に係わり深い斎藤歓之助道場跡・上小路 | 同の武家屋敷街 | 同 | |
同 | 同 | 楠本家屋敷 | ||
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