日本の城跡

大村城(別称:玖島城)

復元板敷櫓と家士屋敷跡
訪問日 H24年 9月
ポイント 玖島城は大村湾に面した大村扇状地南端の突出した半島の基部に構築された平山城。三方が海に面した丘陵にあり、地続きの東側に広大な空堀を設けて防備した。最高所の本丸は総石垣で固められ、塁線は複雑な折れを多様、南に一段低く二の郭、西側に空堀を挟んで三の郭を構えた。全国唯一の遺構である大村湾に面した南西部にドック式の御船蔵を、南東部には防波堤を築きその内側を船留りとした。大村湾の水を巧みに利用した海城である。
印象 平戸城から佐世保、大村湾を見ながら大村へ。夕闇せまる中、武家屋敷街を散策。石造りの門構えの屋敷街は重厚。城周辺に戻り、五教館御成門、東側を守る大きな角掘を見る。翌日朝早く城へ。花畑になっている空堀跡を眺めながら、穴門を通り巨大な櫓台が構える大手口から入る。二の郭に出ると屈折のある本丸の高石垣が目に飛び込んできた。二の郭の南屋敷跡に行くと復元された板敷櫓があり、なんと堀切と鬱蒼とした三の郭との間に中世的な土造りの空堀がありびっくり。次に桝形虎口から大村神社が鎮座する本丸へ。搦め手口から三の郭方面に行くと、いざという時海に脱出できる、旧大手門であった”いろは坂門”に。そこから先ほどの空堀を通り南側の海へ出る。こちらから見る板敷櫓・石垣もすばらしい。海岸線を歩き、待望のドッグ式御船蔵へ、まさしく海城だ。どんと構える大手の直線的高石垣と櫓台、穴門。更に総石垣で囲まれ、堅固な造りの本丸。当初期待した以上にどんどん引き込まれる。近世と中世の城郭が混合した城だった。
地図
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略史  大村氏の祖直澄は藤原純友の孫である。994年に大洲から大村に下向して大村氏を名乗った。鎌倉期に地頭、在地領主として勢力を伸ばし、戦国期には有馬氏から大村純前の養子となり、家督を継いで十八代当主となったキリシタンの純忠は、長崎でのポルトガル船との貿易で勢力を拡大した。純忠は玖島北方に山城の三城城を築いたが、豊臣秀吉に長崎を没収され打撃を受ける。次の喜前は豊臣秀吉の九州征討に参戦して本領を安堵され、新城築城に乗り出した。喜前は山城の不便さ、朝鮮出陣での経験から海に囲まれた要害の地の玖島崎に決定した。一方キリシタンの洗礼を受けた喜前であったが、秀吉のバテレン追放令などを受け、徐々に信仰を離れ法華宗徒となった。1599年に大村城は完成したが、喜前はキリシタン迫害の報復によるものか、1616年に城中で毒殺された。これより先、喜前は関ヶ原の役で家康方に寝返り本領を安堵されたが、長崎は返還されず財政は悪化した。喜前は領内総検地を実施、次の純頼も一族一門の知行地没収、他方蔵米地の拡大等で窮乏を克服した。純長の時、隠れキリシタンが大量に発覚したが、幕府に恭順の意を示して危機を脱した。その後大飢饉もあったが、甘藷の普及で凌ぎ、殖産興業策として松島炭鉱の開鉱、陶器業の奨励をし、他方藩校を創設して家臣の教育に務めた。幕末、尊王・佐幕の軋轢はあったが勤王として統一、戊辰時には江戸城無血開城、彰義隊討伐、会津城攻めに功績を挙げた。
角掘跡
長堀跡
大手口櫓台 穴門
穴門上部
同・剣術指南役斎藤歓之助碑
 大手口前の家士屋敷跡 大手口
外堀のかりかと川 大手口から二の郭へ 同、鈎型に
同上から   二の郭へ、本丸石垣 本丸台所口・二の郭方面 同・馬郭方面 本丸石垣
二の丸屋敷跡 二の郭南屋敷跡と板敷櫓間の堀切 三の郭間の空堀
南屋敷跡・板敷櫓 二の郭土塁跡 本丸石垣 同虎口門と石垣下門 同虎口門
本丸へ 同大村神社 本丸搦手口門跡方面 本丸石垣・土塀
本丸・稲荷神社 藩主御居館跡 搦手口門跡 同石垣
いろは坂門跡
二の郭と三の郭間の空堀 同空堀土塁 同空堀
新蔵跡の井戸 新蔵波戸 大村湾 御船蔵方面
御船蔵 同・梶山御殿方面 御船蔵   同・後方は粮米蔵屋敷跡 御船蔵
梶山御殿跡
新蔵波戸から三の郭方面 同から二の郭方面  板敷櫓下から家士屋敷跡 家士屋敷から板敷櫓・石垣
大手入口門跡
  長堀跡から本丸方面 角掘から本丸方面 角掘石垣跡
藩校集義館跡(後に静寿館、更に五教館)  同にある大村連隊司令部碑
藩校五教館御成門   同地にある大村小学校 武家屋敷街案内 本小路 武家屋敷街
大村騒動に係わり深い斎藤歓之助道場跡・上小路
上小路
同の武家屋敷街
楠本家屋敷