日本の城跡

佐賀城(別称:佐嘉城・栄城・亀甲城)

復元本丸御殿
訪問日 H24年 9月
ポイント 城は有明海によって形成されたクリークの地形をフルに利用して築かれた平城。城域は15万坪と広大で、曲輪を囲む大外の水堀は鉄砲戦に耐えうよう50m以上の幅を擁していた。曲輪は方形の連続で単純な構造になっているが、クリークが縦横無尽に入りこんでいる為、極めて複雑で攻めにくくなっている。本丸・二の丸の中枢部は曲輪の南東部に位置し、土居と広大な水堀が周囲を囲んでいる。更に本丸の西側に水堀を挟んで三の丸、西の丸を配し、北側半分は鍋島家・諫早家・多久家等重臣屋敷になっており、クリークと土塁・塀で固めていた。佐賀城は北が大手門になっている。戦国時代、竜造寺氏を強敵八戸氏・神代氏、また大内氏・大友氏らが北方から攻め入った為、北に厚く備える必要があった。ところで佐賀城は”沈み城”とも称される。これは城が佐賀平野の平坦低地のクリークに囲まれ、いざという時に多布施川の水を取り入れ、八田江・佐賀江の排水を止めて、天守・本丸の一部を除き、城下町もろとも水没させるもくろみの為である。
印象 本丸御殿が再建、堂々たる館だ。朝早かったので、中に入らず、中学生が写生をしていた。ここは街の真ん中。ほぼ四角の水堀の中に本丸・二の丸・三の丸・西の丸・重臣屋敷群が配置されている。水堀は鉄砲を意識して広大。本丸天守台・隅櫓台などを見た後、その水堀沿いを一周した。かなりの大きさだ。更に城域の中をクリークが縦横に走っている。近世の城だ。本当に街のシンボルになっており、水堀が心を落ち着ける。ところでどっしりと構えている鯱の門に無数の弾痕があった。これは征韓・憂国党を名乗る佐賀藩士が城を奪取すべく、守る政府軍の熊本鎮台兵に猛攻を加えた時のもの。考え深い傷跡だ。
地図
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略史  室町末期、竜造寺氏は大内氏を破り、戦国期には家臣の鍋島直茂が村中城(佐嘉城)を取り囲む六万余の大友軍を夜襲で撃退し、肥前・筑前・筑後・肥後・豊前を支配する大大名となった。この時竜造寺隆信は村中城・水ヶ江城を本拠としていた。戦国末期、隆信は島原で島津・有馬連合軍との戦いで討死、後継の政家を鍋島直茂が補佐した。豊臣秀吉に取り立てられた直茂は竜造寺家臣団を統率し、実権を握った。直茂は関ヶ原の役で西軍に属したが、立花宗茂討伐の功で安堵、危機を脱した。直茂は当初、蓮池城を本拠としたが、竜造寺政家・高房父子の死去に伴い、竜造寺家の後継となり村中城に入城し佐賀城として近世城郭に改修した。直茂は高齢の為隠居、初代藩主勝茂は旧竜造寺氏一門を諫早氏に改姓の上、臣下に組み込むと共に、弟達に分与して本支藩体制を確立した。又一門を登用して御親類四家を創設、光茂は三家格式を制定して支配権を強めると共に世禄制の実施、殉死の禁止等文治主義的政策を実施した。武士道書”葉隠”はこれらに対する反動書である。しかしこの頃から財政は困窮、冶茂は藩校の創設や殖産興業として新田開発や有田焼の育成に注力、他方罪人を普請場で働かせる懲役刑制に改め労働力を捻出した。直正は教育に注力しスパルタ教育を押し進め、更に財政立て直しを断行、農村秩序の再編成を企画、借財の利子免除、土地再配分する均田制を実施、また国産方を設けて陶器・石炭・白蝋等を専売とした。次に軍事力の育成に痛感し洋式軍事工場を開設、新式銃や大砲の鋳造、蒸気船の進水に成功、陸海軍最強と言われた。当藩は開明的改革を断行したが、将軍家との姻戚関係からか尊攘、倒幕運動で比較的傍観的態度であったが、戊辰時は上野・東北戦争に参戦し強力な火器で新政府軍の勝利に貢献した。そして江藤新平・副島種臣・大隈重信等優秀な人材を輩出し明治政府を支えた。
二の丸から本丸鯱の門 二の丸 二の丸から本丸天守台石垣 鯱の門  同本丸内部より・番所
本丸御殿 本丸・土塁 本丸御殿
本丸・天守台 本丸・隅櫓台 本丸土塁上
本丸南側水堀
同・本丸土塁
本丸石製樋管と赤石積水路
 本丸御殿・鯱の門方面
本丸天守石垣
鍋島氏屋敷から天守台
天守台 同桝形虎口 同からの本丸
同・石碑 天守台上 同より二の丸 同二の丸
重臣屋敷跡から本丸天守台方面
天守台石垣
 本丸と三の丸間の水堀跡 三の丸方面 同から天守台方面 隅櫓台・水堀跡
水堀外側から本丸
鯱の門を模した赤松小学校校門 三の丸・西の丸方面・南側水堀
同水堀 同の石垣 同水堀
同西側水堀
同土塁
水路 北の門跡 北側水堀・老木 重臣屋敷後の佐賀県庁
北側水堀
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三の丸方面
二の丸から鯱の門
本丸北東隅櫓台