日本の城跡
佐賀城(別称:佐嘉城・栄城・亀甲城)
略史 室町末期、竜造寺氏は大内氏を破り、戦国期には家臣の鍋島直茂が村中城(佐嘉城)を取り囲む六万余の大友軍を夜襲で撃退し、肥前・筑前・筑後・肥後・豊前を支配する大大名となった。この時竜造寺隆信は村中城・水ヶ江城を本拠としていた。戦国末期、隆信は島原で島津・有馬連合軍との戦いで討死、後継の政家を鍋島直茂が補佐した。豊臣秀吉に取り立てられた直茂は竜造寺家臣団を統率し、実権を握った。直茂は関ヶ原の役で西軍に属したが、立花宗茂討伐の功で安堵、危機を脱した。直茂は当初、蓮池城を本拠としたが、竜造寺政家・高房父子の死去に伴い、竜造寺家の後継となり村中城に入城し佐賀城として近世城郭に改修した。直茂は高齢の為隠居、初代藩主勝茂は旧竜造寺氏一門を諫早氏に改姓の上、臣下に組み込むと共に、弟達に分与して本支藩体制を確立した。又一門を登用して御親類四家を創設、光茂は三家格式を制定して支配権を強めると共に世禄制の実施、殉死の禁止等文治主義的政策を実施した。武士道書”葉隠”はこれらに対する反動書である。しかしこの頃から財政は困窮、冶茂は藩校の創設や殖産興業として新田開発や有田焼の育成に注力、他方罪人を普請場で働かせる懲役刑制に改め労働力を捻出した。直正は教育に注力しスパルタ教育を押し進め、更に財政立て直しを断行、農村秩序の再編成を企画、借財の利子免除、土地再配分する均田制を実施、また国産方を設けて陶器・石炭・白蝋等を専売とした。次に軍事力の育成に痛感し洋式軍事工場を開設、新式銃や大砲の鋳造、蒸気船の進水に成功、陸海軍最強と言われた。当藩は開明的改革を断行したが、将軍家との姻戚関係からか尊攘、倒幕運動で比較的傍観的態度であったが、戊辰時は上野・東北戦争に参戦し強力な火器で新政府軍の勝利に貢献した。そして江藤新平・副島種臣・大隈重信等優秀な人材を輩出し明治政府を支えた。 |