日本の城跡

島原城(別称:森岳城・高来城)

大手口周辺からの遠望・復興天守・巽三重櫓
訪問日 H24年 9月
ポイント 城は雲仙岳を背後にもち、東の有明海の船便を活用した構成で、天然の良港を外郭に取り入れ、南北に細長く、並郭式に本丸・二の丸を、北に連郭式に三の丸を連ね、その周囲を家中(家臣の住居)と石垣で固めた。海からは浮かぶ軍艦に見えた。その規模は九州では数少ない譜代大名の居城として、幕府の威信をかけて築城されたもので、四万石の居城としては異例と言える五層の大天守を中心に、周囲四キロに及ぶ総石垣の城郭である。外郭は矢狭間のある塀を廻らせ、七つの城門と三十三の平櫓があった。二の丸と本丸は廊下橋で繋がれ、橋を落すことで本丸は独立できる構造である。そして高石垣と幅広い堀で固め、特に本丸は高石垣が幾重にも屏風折れし、そこに櫓を配置している。天守の周囲は石垣と塀、櫓で複雑な出入りを形成している階段状の帯曲輪が配されている。
印象 50年ぶりの登城。当時は時間が無く、堀端から見ただけだったが、天守は建っていた。それにしても堀から見る石垣群・水堀・櫓・天守の見事なこと。一揆軍の攻撃にびくともしなかったことが分る。二の丸に駐車して、家中の武家屋敷から見る。良く残されており、一軒ずつの石垣塀にびっくりする。次に」水堀沿いに歩き、観光用の入口から本丸へ。天守がたかだかと夏空に聳えていた。櫓等を廻り、階段場の帯曲輪の日陰で昼食。石垣・堀・櫓台が残る本丸北部を通り、廊下橋があった掘を渡って二の丸へ。どこから見ても本丸方面の景色はすばらしい。最後に50年前に撮った大手口あたりからパチリ。すこし観光地化過ぎているのが気になった。
地図
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略史  島原は、もとは有馬氏の所領であったが、室町末期に竜造寺隆信の支配となった。しかし有馬氏は島津氏と連合して竜造寺氏を破り、島原を奪回、有馬晴信は関ヶ原の役で徳川軍に与し本領安堵された。晴信はキリスト教の布教を保護し朱印船貿易で多大な利益をあげたが、ポルトガル船撃沈に伴う恩賞に絡む本多家家臣岡本大八の賄賂事件で晴信は処刑、後継の直純は幕府方針のキリシタン弾圧を徹底できず転封になった。次に大坂の陣の軍功で松倉重政が加増入封し、一国一城令にもかかわらず九州外様の押さえとして、キリシタンへの牽制も含めて、特別の許可を得て藩領の中心に新城を築城した。だが後継の勝家の時、キリシタン弾圧と幕府の軍役賦課等の出費に対する過酷な増徴、加えて大凶作が重なり天草四郎を中心とした島原・天草の乱が勃発した。キリシタンと農民は島原城を攻撃したが果たせず原城に立て籠もった。乱は幕府軍、一揆軍双方に莫大な被害を出して治まったが、勝家はその責任で処刑され、松倉家はお家断絶となった。次に高力忠房が入封し、藩領の再建の為西日本の農民を移住させ善政をしいたが、後継の隆長が農民の反発を招くなど失政が多く改易。次いで深溝松平、戸田氏が入封後、再度深溝松平氏が入った。忠恕は農民救済、藩札発行等を図ったが、改革中に雲仙岳の大噴火で壊滅的打撃を受けた。忠馮は倹約令の実施、殖産興業策として櫨の栽培、明礬等の生産奨励と共に軍備と教育の強化を図った。幕末慶喜の実弟忠和が襲封、水戸の思想を継ぐ多くの尊攘派家臣を輩出したが、将軍実弟として佐幕派の立場から鳥羽伏見まで慎重に対応、戊辰時は新政府側で奥羽に出兵した。
50年前の遠望 内郭
外郭
二の丸土橋から東側堀・石垣 内郭西側堀
二の丸土橋西側掘・石垣 二の丸と本丸間の掘・石垣 本丸西側掘・石垣
同・観光用入口 同・西三重櫓 同・西三重櫓
本丸・西三重櫓 同・鐘つき 西三重櫓 同下の帯曲輪 同帯曲輪・塀
同西三重櫓 同の転用石垣 復興天守 本丸・櫓台
復興天守 巽三重櫓 同・帯曲輪・水堀 帯曲輪・水堀・有明海
丑寅三重櫓・帯曲輪 景華園遺跡の支石墓 本丸より二の丸・三の丸方面 本丸より有明海、阿蘇山方面 御馬見所
本丸御門跡 本丸帯曲輪・本丸虎口方面 本丸北側櫓台・石垣 本丸虎口桝形・石垣
同・馬出し
本丸櫓台 二の丸・石垣・廊下橋門跡 本丸と二の丸間の掘
本丸虎口・櫓台石垣 本丸虎口・櫓台石垣 本丸東側掘・石垣・丑寅三重櫓 丑寅三重櫓
二の丸掘の北東隅からの遠望 外郭・武家屋敷跡 二の丸東側掘 二の丸石垣上から掘 二の丸石垣上
二の丸北東隅から三の丸方面 二の丸北石垣 同櫓台 同筋金門跡 同弓矢蔵跡
三の丸 時鐘櫓 外郭西虎口門 外郭(武家屋敷)
外郭(第一中冠木門) 外郭(島原商高)
大手門跡
外郭石垣
本丸水堀東南隅からの遠望 古写真
雲仙岳・七面山