日本の城跡

吉野ヶ里

竪穴式住居・物見やぐら
訪問日 H24年 9月
ポイント 吉野ヶ里は脊振山地南麓の有明海に向って開けた地形である。弥生後期になると、集落の外濠と内濠の二重の環濠で守られ、外濠はV字型に掘られている。更に濠の内外には木柵・土塁・逆茂木らの柵が施された。内郭の内外に竪穴住居・高床住居・主祭殿・高床式倉庫・貯蔵穴等が建っていた。また甕棺・石棺らに埋葬された共同墓地や2つの墳丘墓が発掘され、首のない人骨やガラスの管玉などの装飾品が出ている。更に多数の土器・青銅器・鉄器・勾玉・銅剣・銅鏡・銅鉾・織物等の装飾品が出土している。これら遺構や出土品は日本各地のものと共通・類似したもほが見られるほか、大陸・朝鮮半島・南西諸島ともいろいろな共通点がある。
印象 すごい物を発掘したなとの感じ。竪穴住居・高床式倉庫・空堀・土塁・柵・祭殿らをもつ規模の大きい環濠集落。見張りのやぐらに登ると広い遺構と、脊振山・有明海方面が一望できた。それから甕棺が多く埋まる墓地、墳丘墓に行く。首のない人骨にはその当時の戦いが想像されどきっとさせられた。この時はここが卑弥呼の邪馬台国なのでは・・・と思った。
地図
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略史  紀元前4世紀の弥生時代に吉野ヶ里の丘に集落が形成された。前期に分散して「ムラ」が出来始め、南の方に環濠を持った集落が出現した。中期には集落の発展と共に、防禦を強める為に丘陵地帯を一周する環濠が掘られた。また墳丘墓や甕棺が多く見られるようになった。後期(紀元1〜3世紀)には環濠が更に拡大して二重になるとともに建物が巨大化し、集落は最盛期を迎えた。更に北内郭と南内郭ができ、文化の発展がみられた。そして丘陵の南端付近に広がっていた海岸線は次第に遠ざかった。古墳時代に入り、吉野ヶ里の濠は大量の土器が捨てられ、埋め尽くされてしまい、集落はほぼ消滅した。丘陵は墓地として前方後円墳や周溝墓が築かれた。人々は低湿地を水田に開拓できるようになり、生活の基盤を平野に置くようになった。
遠望
環濠集落門
同・濠・柵
南内郭 同濠 同・物見やぐら
同・住居群 物見やぐらから見た二重濠・住居群
竪穴式住居内部 北内郭遠望 共同墓地
同・甕棺
近隣の濠
周囲の風景
墳丘墓
北内郭 同・主祭殿 同・濠・物見やぐら・高床式倉庫 同・物見やぐら
同・冠木門・柵
同・濠・柵
同・濠・高床式倉庫