日本の城跡
伊東家廟所
略史 当墓所は飫肥藩伊東家の菩提寺であった、旧報恩寺の墓に位置する。戦国大名となった伊東義祐は、一時日向国一国を治めるまで勢力を伸ばしたが、島津氏との闘争に敗れ、伊東義祐・祐兵親子は縁戚である大友宗麟を頼った。しかし大友氏も島津氏との耳川の戦いに惨敗した為、伊東親子は伊予に渡った。祐兵はそこで伊東家に出入りしていた山伏の紹介で秀吉に出仕できたが、父の義祐は縁なく大阪堺で病没した。祐兵はその後、明智氏との山崎の合戦で軍功を挙げ、更に秀吉の九州征伐では道案内を兼ねた先鋒を務め、旧領飫肥に大名復帰を果たした。関ケ原の戦いでは大阪で病に臥せていたが、黒田如水を通じて家康と通じ、また嫡男祐慶を飫肥に送り、西軍方の高橋元種の城・宮崎城を攻め落とさせた。こうして飫肥藩伊東家は5万1080石の大名として、13代祐相の時に明治維新を迎えた。菩提寺は国許は旧報恩寺、江戸では品川の東禅寺である。旧報恩寺は臨済宗の寺院で、明治5年に廃絶、その後伊東氏の氏神八幡社が建立された。 |