日本の城跡

穆佐城(別称:六笠城・高城)


大堀切
訪問日 H29年12月
ポイント 城は佐土原から都城を経て、薩摩に向う薩摩街道上の要衝に位置。東流する大淀川右岸の東西に長い丘陵上に立地し、丘陵の反対側には支流の瓜生川が丘陵を挟んで東流し、大淀川に注いている。更に城の北・東・南の三方は水田等の湿地に囲まれた要害。縄張りはは幅20mの大きな空堀と、急峻な切岸に囲まれた4つの曲輪群に区画されている。戦闘用曲輪、城主用曲輪、家臣の居住用曲輪に分かれ、防御施設に工夫している。
印象 戦闘の為の曲輪群と言われるA地区の見張り台を目指す。大淀川下流域を一望でき、眺望良し。そこからA地区とB地区間の巨大な堀切を通り、A地区の曲輪へ。空堀、虎口、横矢掛り、土塁、急峻な切岸等工夫が面白い。次に主郭と思われる曲輪があるB地区へ。大小の曲輪を組み合わせて防御性を高め、城の中で一番複雑な構造になっている。従前は杉木立が林立してなかなか入りにくかったようだが、発掘調査が進み、見やすくなっていた。主郭の西側に幅30m、深さ10m強の堀と高さが3m程の土塁があり、圧巻だった。家臣の居住したC地区は藪等で進入できなかった。出丸と思われるD地区は横堀で固めていた。大きな城郭、これからの発掘が楽しみだ。
地図
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略史  南北朝時代、当地は足利尊氏の直轄地となり、城塞が築城された。尊氏の命で日向国守護に任ぜられた畠山直顕は、穆佐城を拠点に南朝方の制圧に努め、大隅国まで勢力を広げた。しかし畠山氏が北朝方に転じた為、南朝方の肥後の菊池氏に攻められ、直顕は日向を去った。室町後期の1403年には島津氏久豊が支配したが、1445年に伊東氏が奪還し、以後約130年間は伊東氏の領地となった。しかし木崎原の戦いで島津氏に大敗した伊東氏は、大友氏を頼って豊後落ちし、日向国は島津氏の支配するところとなった。更に日向侵攻を企てた大友氏との戦いに勝利した島津氏は九州一円に勢力を拡大したが、豊臣秀吉の九州平定で日向の内、伊東氏に飫肥、島津氏に佐土原と諸県郡が与えられ、穆佐城は島津氏の支配となった。江戸期の元和の一国一城令で廃城となったが、去川関外四ヶ郷の一つ、穆佐郷として幕末まで続いた。

遠望

登城口

穆佐護国神社参道

堀切

眺望

見張り台




A地区とB地区間の大堀切



A地区曲輪の切岸

A地区曲輪群に入る

A地区曲輪間の堀切


A地区縄張り図左側の曲輪へ

同内の曲輪








同から見たB地区

同から見た見張り台

同から見た反対側曲輪

A地区右側の曲輪へ

同の曲輪


同・竪堀


同・虎口

B地区・坪の城曲輪

坪の城曲輪とA地区右側曲輪の切岸

大手道と穆佐護国神社

坪の城内の島津忠国誕生記念杉


隣接するB地区曲輪

B地区曲輪へ

B地区からのA地区左側曲輪切岸

B地区曲輪

同曲輪、樹木が伐採され、遺構が分かる

B地区主郭へ


同・土塁

同を奥から見る

発掘中の主郭


同・土塁

主郭土塁からC地区方面と間の大堀切

その大堀切に行く途中の曲輪

大堀切に下る

主郭切岸

C地区曲輪切岸

大堀切



水源

D地区曲輪方面

C地区、シラス崩れ

C地区堀切

C地区堀切

D地区曲輪(砦のような民家)左は堀切

D地区曲輪跡

地元出身、ビタミンの父、高木兼寛氏の碑があった

下から見張り台方面

下からA地区段郭