日本の城跡
飫肥城
略史 飫肥院庁の跡と言われる。飫肥地方は薩摩の島津氏と日向の伊東氏との勢力圏の接点だった為、「一城攻防104年」という日本最長の攻防戦の舞台となった。はじめに飫肥地方を領したのは島津氏で、鎌倉幕府より飫肥の地頭職を任ぜられた。伊東氏は領地が山よりだった為、物産豊富な南方進出を図り、ことに飫肥の外港の良港油津を狙って飫肥城を攻めた。島津忠国は志布志城主の新納忠続を置いたが、櫛間城主島津久逸と私怨を生じた隙に伊東祐国は大軍をもって飫肥城を攻撃し大勝した。祐国は翌年にも押し寄せ落城寸前まで追い詰めたが、島津軍の精鋭が救援に来た為形成は逆転し、祐国は戦死してしまった。しかしその後も伊東氏の攻撃は毎年のように飫肥地方に兵を進め、ついに祐国の孫の義祐の時、百数日の戦闘のすえに攻防八十余年で飫肥城を奪取、二男の祐兵を城主とした。伊東氏は全盛期を迎え権勢を誇ったが、四年後の木崎原の戦いで島津氏に大敗し祐兵も飫肥城を去った。ところが祐兵が豊臣秀吉の家臣となったことから、九州征伐後祐兵は秀吉から飫肥に封じられた。伊東氏は関ヶ原で東軍に与したことから本領安堵された。子祐慶は周辺諸藩と和議を結び、また藩内抗争も安定させ将軍秀忠から朱印をうけたが、相次ぐ軍役、普請役等がその後の藩財政に影響を与えた。薩摩藩との境界紛争の原因ともなった飫肥杉は貴重な財源であり藩の要となった。幕末、祐相は藩校を創設し安井滄洲を招聘し、その影響もあり維新時迷わず新政府側についた。 |