日本の城跡

飫肥城

復元大手門
訪問日 H13年 9月、H14年 9月、H29年12月
ポイント 飫肥城は酒谷川が西から南と東に凸状に囲んで流れている丘陵に築かれ、更に北側にも山川が流れている要害である。大地の上は大小の饅頭を並べたような地形になっており、その盛り上がり一つ、一つに本丸・松尾丸・中の丸・今城など十二の曲輪が設けられていた。これは群郭式または集郭式といい、近世城郭では極めてめずらしい縄張りである。城下町は「九州の小京都」と言われ、碁盤目状に町割りが施されている。中でも武家屋敷街は重臣の十文字地区はじめ四区に分かれている。屋敷の特徴は上下級例外なく石垣を巡らしていることで、その総延長は五キロを超え、土塀の屋敷構えは一軒もない。
印象 最初、台風の影響で大雨の日に行く。薄暗い中、復元された大手門や石垣、堀が残る城跡の一部を急いでみる。今にも武士が出てきそうな感じだ。翌年再訪す。両側が石垣の連なる大手門通りを上がる。樹齢百年以上の飫肥杉を使った復元大手門をすぎると、飫肥石を切込ハギで積み上げた桝形石垣が迫った。更に登ると本丸・松尾丸跡に出る。本丸は学校の校地になっているが、松尾丸には風格ある殿舎が全国でも珍しく復元され、時代を感じさせる。左手に旧本丸跡があるが、歴史を感じる北門登竜門が残り、落ち着いた雰囲気だ。その他藩主居館の予章館・城下の武家屋敷など昔のまま残っており、何度来ても飽きない町だ。三度目。今回は前回行けなかった八幡城跡にまず行く。八幡神社のある所と思ったが、神社の案内には他所から移されたと書いてあった。資料館で確認するも明確な回答はなかった?途中、堂々とした藩校・振徳堂を見ることができた。
地図
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略史  飫肥院庁の跡と言われる。飫肥地方は薩摩の島津氏と日向の伊東氏との勢力圏の接点だった為、「一城攻防104年」という日本最長の攻防戦の舞台となった。はじめに飫肥地方を領したのは島津氏で、鎌倉幕府より飫肥の地頭職を任ぜられた。伊東氏は領地が山よりだった為、物産豊富な南方進出を図り、ことに飫肥の外港の良港油津を狙って飫肥城を攻めた。島津忠国は志布志城主の新納忠続を置いたが、櫛間城主島津久逸と私怨を生じた隙に伊東祐国は大軍をもって飫肥城を攻撃し大勝した。祐国は翌年にも押し寄せ落城寸前まで追い詰めたが、島津軍の精鋭が救援に来た為形成は逆転し、祐国は戦死してしまった。しかしその後も伊東氏の攻撃は毎年のように飫肥地方に兵を進め、ついに祐国の孫の義祐の時、百数日の戦闘のすえに攻防八十余年で飫肥城を奪取、二男の祐兵を城主とした。伊東氏は全盛期を迎え権勢を誇ったが、四年後の木崎原の戦いで島津氏に大敗し祐兵も飫肥城を去った。ところが祐兵が豊臣秀吉の家臣となったことから、九州征伐後祐兵は秀吉から飫肥に封じられた。伊東氏は関ヶ原で東軍に与したことから本領安堵された。子祐慶は周辺諸藩と和議を結び、また藩内抗争も安定させ将軍秀忠から朱印をうけたが、相次ぐ軍役、普請役等がその後の藩財政に影響を与えた。薩摩藩との境界紛争の原因ともなった飫肥杉は貴重な財源であり藩の要となった。幕末、祐相は藩校を創設し安井滄洲を招聘し、その影響もあり維新時迷わず新政府側についた。

大手門
大手門空堀
大手枡形

    犬馬場跡
本丸城壁・犬馬場跡・隅櫓台

本丸へ

本丸枡形虎口

本丸(旧中の丸・今城)

松尾丸
同殿舎
同内部
    本丸案内
旧本丸

同・土塁

同・虎口


同・北門

同・中の丸方面より
城下町方面
藩主居館
      同

同・埋め門
   武家屋敷街
   武家屋敷
    伊東家


H29年12月再訪
大手門

枡形

正面は松尾丸、手前は犬馬場

松尾丸

土塁

本丸(旧中の丸・今城)

本丸から犬馬場への虎口
犬馬場と大手門
大手門前の空堀



武家屋敷

藩校・振徳堂

同・長屋門


八幡神社(旧八幡城跡?)

同・社殿

旧宮藪跡方面

土塁

飫肥小学校(旧今城跡)

飫肥中学校(旧御蔵城他跡)