日本の城跡
高鍋城(別称:財部城・舞鶴城)
略史 財部土持氏の居城。土持氏は田部氏の一族で豊前宇佐神宮の神官であったが、神領たる荘園の管理や拡大に活躍し、平安時代以来県庄を中心に土持七頭があって日向を治めた。財部土持氏も七頭の一つで勢力を伸ばしたが、伊東氏と戦って敗れ滅亡した。城は伊東氏が有し、伊東四十八城の一つとなった。その後島津氏の有となったが豊臣秀吉の九州征伐後、秋月種実が新納・櫛間と木脇を有して日向に来たが櫛間に居住した。関ヶ原では東軍に与した為本領安堵され、種長の時、財部城を修築して移り、更に三代種信が大改修して近世城郭とし、同時に高鍋と改称した。種政は地方支配の強化や茶・漆・櫨の植栽を奨励、種美は家中の子弟を江戸等に遊学させ人材の育成を図り、種茂は新田開発、藩営の紙・朝鮮人参の生産に努め、特に御牧、百姓牧は重要な藩の財源となった。都井の岬馬はその名残り。また藩校を創設、弟は米沢藩主、上杉鷹山である。最後の種殷は殖産に注力、兵制改革を推進し、維新時は薩摩藩に同調した。 |