日本の城跡
高千穂神社
参道の鳥居 |
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略史 社伝によれば、三毛入野命が神籬を建てて祖神の日向三代とその配偶神を祀ったのに始まり、三毛入野命の子孫が長らく奉仕して、後に三毛野命他の十社大明神を配祀、垂仁天皇の時代に初めて社殿を創建した。天慶年間(938年頃)に豊後国から大神政次が当地に入り、高知尾(高千穂)氏を興したが、同氏は当神社を高千穂18郷にわたる88社(高千穂88社)の総社と位置付けて崇め、当神社に深く関わった。中世になると土持氏の勢力が入り、当社は妻万宮(西都市都萬神社)の管轄下にあったが、同じころに高千穂氏によって紀州の熊野信仰がもたされた。その後高知尾庄と呼ばれた当神社の社領は、高知尾政重が地頭職となり、鎌倉中期までに熊野山領に組み込まれた。また源頼朝が天下泰平祈願の為に、畠山重忠を派遣して神宝や鉄製狛犬1対が奉納、更に「秩父杉」を植えた。文永・弘安の役には戦勝祈願の為に直視が差遣された。鎌倉中期から高知尾庄に北条氏被官の安東氏の勢力が進出、他方熊野別当の後胤たる浦上氏も当神社を含めた一帯の支配を強めた。鎌倉末期からは島津氏が地頭となったが、高知尾氏も三田氏を称して三田井郷の地頭職を所持する等、社領や神事を巡る相論が頻出しだした。更に南北朝期には南朝方に与する阿蘇氏が進出、懐良親王による祈願の為の神宝が奉納され、以後阿蘇氏の支配の下、「高千穂郷総鎮守」として崇められた。近世には有馬氏はじめ三浦・内藤の歴代延岡藩主から崇敬を受けている。明治に入り、県社、村社となり、戦後は神社本庁の別表神社となった。 |