日本の城跡
都於郡城(別称:浮舟城)
略史 鎌倉時代、工藤祐経は日向国の地頭職に任ぜられた。祐経は曽我兄弟に討たれるが、遺領は子孫に継承され、代官が治めていた。南北朝期、祐経の嫡男・伊東祐時から6代目の祐持は、足利尊氏に従って軍功を挙げ、都於郡に所領を与えられ、日向伊東氏初代として入部、築城した。2代目裕重が山城として改修、その後当城を拠点に、伊東氏は240年余り日向国に勢力を拡大してきたが、10代義祐の時、木崎原合戦で島津氏に大敗し、都於郡城は落城、伊東氏は一族を連れて豊後に落ち延びた。島津氏は都於郡城に鎌田出雲守を入城させたが、豊臣秀吉の九州平定により、島津家久が佐土原j城に入城し、都於郡城もその領有下となったが、徳川期に入り、元和の一国一城令で廃城となった。 |
本丸切岸遠望 |
堀跡の土塁 |
右は馬場跡 |
堀跡 |
|
堀跡、右は馬場跡か |
堀切 |
お蔵跡の土塁 |
本丸切岸 |
奥の城方面 |
本丸と奥の城間の空堀 |
奥の城の空堀・切岸 |
同 |
奥の城虎口 |
虎口 |
虎口・土塁 |
土塁 |
奥の城 |
同 |
奥の城碑 |
本丸と奥の城間の空堀 |
同 |
同 |
同 |
ダイヤモンド富士(二の丸切岸越の太陽) |
本丸切岸 |
本丸と二の丸間の大空堀 |
同(これでも3m以上埋められている) |
本丸土塁 |
二の丸虎口 |
二の丸腰曲輪 |
二の丸本丸側土塁 |
同 |
二の丸 |
同 |
同 |
二の丸土塁 |
二の丸腰曲輪側の切岸 |
二の丸土塁から本丸方面 |
同 |
二の丸から三の丸切岸 |
二の丸から西の城方面 |
二の丸切岸 |
二の丸切岸と三の丸方面 |
三の丸切岸 |
西の城切岸 |
西の城腰曲輪 |
同 |
西の城切岸 |
同 |
西の城から三の丸方面 |
西の城 |
西の城帯曲輪 |
西の城 |
西の城から三の丸腰曲輪方面 |
西の城 |
急崖 |
西の城から霧島連峰方面 |
同から三財川 |
西の城と三の丸間の空堀 |
三の丸の切岸 |
三の丸から西の城方面 |
三の丸 |
三の丸土塁と二の丸方面 |
三の丸から二の丸 |
三の丸土塁 |
三の丸 |
三の丸 |
本丸虎口 |
同から二の丸方面 |
同から本丸と二の丸間の大空堀 |
本丸腰曲輪 |
同 |
本丸内部の空堀 |
本丸内の高屋山上陵跡碑 |
本丸土塁 |
同土塁切り口? |
同土塁 |
本丸 |
同内部の土塁(陵墓絡みか) |
同 |
伊東マンショの像 |
本丸枡形虎口 |
同 |
同 |
都於郡城碑・高屋山上陵跡碑 |
本丸切岸 |
同 |
||