日本の城跡
鹿児島城(別称:鶴丸城・府城)
略史 島津氏は平安末期に日向国島津荘の下司職になり、島津姓を称した。鎌倉時代には薩摩・大隅国の守護職に補任され、次第に勢力を伸ばした。南北朝抗争時代に貞久は鹿児島を領国支配の拠点としたが、室町時代には内紛が激しくなり一族がそれぞれ小大名となった、戦国時代には伊作島津家の貴久が宗家を継ぎ、子の義久・義弘らの協力を得て薩摩・大隅を攻略した。ポルトガル船がもたらした鉄砲を逸早く実戦で用いた貴久が死去、次の義久は飫肥の伊東氏を破り、次いで相良氏、竜造寺氏、大友氏を破り九州第一の大名となった。しかし豊臣秀吉の九州征伐に対抗したが力及ばず降伏、薩摩・大隅・日向の旧領は安堵された。関ヶ原で義弘は西軍に与した為、存亡の危機に立たされたが家臣必死の嘆願によって旧領の安堵を得た。薩摩藩の初代家久は新城築城に当り、父義弘が従来の本拠地清水城にこだわったが、新時代に即応した城として、城山山麓に築いた。領国内は外城制度により百十三の郷の武士集落を形成した(郷士制度)。また徳川家康の許可を得て琉球出兵し支配、中国との貿易も行った。次の光久は新田開発、金山開発、殖産の拡充に努め財政基盤の強化を図ったが、綱貴の時鶴丸城、高輪藩邸、芝藩邸が火災に遭い、更に綱豊に将軍家よりの輿入れが重なり財政をさらに圧迫した。重年の時には木曽三川治水工事を命じられ、多大な出費と犠牲を強いられた。重豪は徹底した緊縮政策をとる一方、開明政策を推し進め言語風俗を改め、医学・天文学の藩校も創設した。しかし娘の茂姫が十一代将軍の正室になった為、幕府より多大な出費を再度強いられた。斉興の時、側用人調所広郷を登用し、大商人より踏倒し同然の借金で藩債を整理したり、国許の債権者は士分に取り立てて帳消した。他方琉球貿易の拡大や国産品の専売制で収奪を強化し再建を果たした。調所は密貿易露見の咎で自殺した。斉彬も開明的な政策を執り、反射炉・溶鉱炉・洋式造船所・ガラス・電信機業を起こすなど我国の近代工業の先駆的役割を担った。桜田門外の変後、討幕急進派が台頭したが、公武合体の立場をとる久光に抑えられた。その帰途の生麦事件から薩英戦争が勃発、攘夷の無益を痛感、進んで西洋文明を吸収しようとの藩論が醸成された。そして討幕に傾き西郷隆盛が藩を舵取り、第一次征長戦後坂本竜馬の周旋で長州藩と同盟し、討幕の動きが加速した。 |