日本の城跡

久留米城(別称:久留目城・篠原城・篠山城)

本丸東面高石垣・密柑丸
訪問日 H24年 9月
ポイント 九州第一の大河筑後川の中流域の河畔の丘陵上に位置し、筑紫平野のほぼ中央に位置する水陸交通の要衝。筑後川を外堀とし、泥湿地・沼地を利用して周囲に水路を巡らしている。本丸を丘陵の上に置き、本丸東南隅に三層の巽櫓を構え、天守閣に代えた。石垣は本丸のみ築き、二の丸・三の丸は深い堀と堤防によって防壁とした。二の丸の一部が北に伸びて本丸を包み、更に二の丸の南に三の丸を置き、これらを囲むように外郭を置く厳重な防衛線を形成している。本丸の石垣の高さは15mもあり、筑後川を背後にした南向きの城で、本丸の防備も南面が特に厳重で、石垣は二重に造られ、隅櫓を三棟置き、その間を二重の多聞で結んでいた。このように久留米城が極めて実戦向きな城郭にしたのは、この城が徳川幕府の支城的性格を持ち、西国全体に睨みをきかせる役割を持っていたからである。
印象 二の丸・三の丸等は街並み・工場の中に埋もれてしまったが、本丸周辺の直線的で力強い高石垣、本丸桝形虎口等が立派に残っていた。行く前は期待うすかったが、この石垣群は見応え充分だった。
地図
地図をクリックすると拡大します

略史  久留米城は永正年間(1504)頃、土地の豪族が笠原の地に砦を築き笠原城と呼んだ。天正十五年(1587)、豊臣秀吉は九州征伐後に毛利秀包(毛利元就の末子・隆景の養子)を久留米城主とし、秀包は本丸を丘陵の上に置くなど近世城郭に改修した。秀包は朝鮮出兵で軍功を挙げ加増を受けたが、関ヶ原の役で西軍に属し改易、岡崎から田中吉政が筑後一国を領し柳川城に入城し、久留米には次男の吉信を入れた。しかし田中氏は嗣子続かず除封となり、大阪の陣で軍功を挙げた福知山城主・有馬豊氏が入封し久留米城の改修と城下町を整備した。頼元は倹約令や治水に注力し大石水道を完成した。則維は知行制の廃止、定免制の検見取への転換等行財政改革を促進、更に床島堰の完成で藩庫を潤した。しかしその後の虫害や手伝い普請等で財政は急速に困窮した。幕末二度の長州征伐に出兵したが大政奉還で一変、戊辰時は新政府軍に属し、函館まで転戦した。
筑後川越えの遠望   本丸東面高石垣・腰曲輪 同・密柑丸
同・腰曲輪
同・同 本丸東面東御門跡 同・月見櫓跡 同・同
東御門石垣
石垣上
本丸内の連隊石碑
本丸内の小早川神社
本丸石垣台
本丸・篠山神社
大井戸
同内の芭蕉塚
本丸
本丸巽櫓に続く石垣
巽櫓台
同から冠木御門跡を 巽櫓台 本丸井戸
冠木御門・太鼓櫓跡
篠山神社入口・石垣 太鼓櫓台 冠木御門跡 城碑 冠木御門跡
  土橋から太鼓櫓台・南西部石垣 冠木御門桝形 太鼓櫓跡・南西部石垣 本丸南西部高石垣・堀跡 本丸堀跡
本丸南西部高石垣・坤櫓跡・堀跡
本丸南東部高石垣
同・土橋
本丸南東部高石垣・腰曲輪
太鼓櫓跡から二の丸方向(工場地帯)
二の丸方向
二の丸石碑
三の丸石碑

筑前堀跡
移築城門