日本の城跡
久留米城(別称:久留目城・篠原城・篠山城)
略史 久留米城は永正年間(1504)頃、土地の豪族が笠原の地に砦を築き笠原城と呼んだ。天正十五年(1587)、豊臣秀吉は九州征伐後に毛利秀包(毛利元就の末子・隆景の養子)を久留米城主とし、秀包は本丸を丘陵の上に置くなど近世城郭に改修した。秀包は朝鮮出兵で軍功を挙げ加増を受けたが、関ヶ原の役で西軍に属し改易、岡崎から田中吉政が筑後一国を領し柳川城に入城し、久留米には次男の吉信を入れた。しかし田中氏は嗣子続かず除封となり、大阪の陣で軍功を挙げた福知山城主・有馬豊氏が入封し久留米城の改修と城下町を整備した。頼元は倹約令や治水に注力し大石水道を完成した。則維は知行制の廃止、定免制の検見取への転換等行財政改革を促進、更に床島堰の完成で藩庫を潤した。しかしその後の虫害や手伝い普請等で財政は急速に困窮した。幕末二度の長州征伐に出兵したが大政奉還で一変、戊辰時は新政府軍に属し、函館まで転戦した。 |