日本の城跡
柳川城(別称:柳河城)
略史 柳川城は文亀年間(1501)頃、、蒲池氏五代の冶久が築城。孫の鑑盛の時、豊後の大友氏に属し柳川城を大改修し本城とした。天正六年 (1578)、鑑盛は大友軍に従い島津軍と戦い、日向で討死した。子の鑑並が後継となったが、3年後、妻の父である肥前の竜造寺隆信に謀殺され蒲池は滅亡、城は竜造寺氏の支配となった。豊臣秀吉の九州征伐後、筑前立花城主・立花宗茂が入封したが、関ヶ原の役で西軍に属した為棚倉に改易、替って三河岡崎から田中吉政が筑後一国を与えられ、柳川城に入城した。しかし吉政が客死、忠政が後継となったが嗣子続かず除封されると、立花宗茂が再入封し、旧家臣の復帰や城下町を整備した。鑑任の時、新田開発、銀札発行、櫨運上金の設立、炭鉱の開発を実施した。幕末鑑寛は家老立花壱岐を登用し、産物の交易利潤を求める産業経済政策と兵制改革を行い、新軍隊を組織し軍備の充実にも努めた。二度の長州征伐に出兵したが、戊辰時は新政府軍に属して会津戦争に参戦した。 |