日本の城跡

柳川城(別称:柳河城)

本丸跡(中学校)
訪問日 H24年 9月
ポイント 柳川は有明海に流れる筑後川と矢部川に囲まれたデルタ地帯である。矢部川の水が城の周囲に張り巡らされ、いざという時は矢部川の水門を切り落すようになっており、水は水路から溢れ、城と周辺だけを残して他は水浸しになる仕掛けになっていた。水中に浮かぶ城である。城郭は五重の天守をもつ本丸と二の丸を合体させた長方形の外に広い内堀を巡らしている。本丸は石垣で固めたが、二の丸は土塁である。内堀の外には二重三重の堀が巡り、本丸・二の丸の周囲を大きなブロックの町割が取り巻くように配置されている。
印象 これはまた見事に壊されたものだ。台風で決壊した有明海の堤防を修築する為石垣が転用されたらしい。中学・高校がある所。当時は立派な五重の天守を持つ城郭であったが、今は申し訳程度に中学校の中に天守台跡・石垣が残る。そして水堀跡と思われる水路が中学校の四方を囲んでいた。現在は城下町のイメージは薄く、水郷の町として外堀や水路を利用した観光舟巡りが盛んらしい。また立花氏の別邸が残っている。殿様の優雅な生活の一端がうかがいしれた。観光の町として立花氏は充分貢献しているようだ。
地図
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略史  柳川城は文亀年間(1501)頃、、蒲池氏五代の冶久が築城。孫の鑑盛の時、豊後の大友氏に属し柳川城を大改修し本城とした。天正六年     (1578)、鑑盛は大友軍に従い島津軍と戦い、日向で討死した。子の鑑並が後継となったが、3年後、妻の父である肥前の竜造寺隆信に謀殺され蒲池は滅亡、城は竜造寺氏の支配となった。豊臣秀吉の九州征伐後、筑前立花城主・立花宗茂が入封したが、関ヶ原の役で西軍に属した為棚倉に改易、替って三河岡崎から田中吉政が筑後一国を与えられ、柳川城に入城した。しかし吉政が客死、忠政が後継となったが嗣子続かず除封されると、立花宗茂が再入封し、旧家臣の復帰や城下町を整備した。鑑任の時、新田開発、銀札発行、櫨運上金の設立、炭鉱の開発を実施した。幕末鑑寛は家老立花壱岐を登用し、産物の交易利潤を求める産業経済政策と兵制改革を行い、新軍隊を組織し軍備の充実にも努めた。二度の長州征伐に出兵したが、戊辰時は新政府軍に属して会津戦争に参戦した。
本丸跡 同・水堀跡  
本丸・二の丸間の水堀跡
本丸天守台跡 同・石垣
本丸・二の丸間の水堀跡・石垣 水堀跡 西南隅土塁石碑
水堀跡 外堀・舟廻り 水路
立花氏別邸 同・洋式兜 同・雛段