日本の城跡
秋月城(別称:秋月陣屋)
略史 建仁三年(1203)、原田種雄が鎌倉幕府の許可を得て古処山に山城、麓に館を築城し、秋月氏を名乗った。戦国時代、秋月種実は豊前・筑前・筑後の12郡を支配したが、豊臣秀吉の九州征伐で軍門に下った。この時秋月氏は家宝の名器「楢柴の茶壺」を秀吉に献上して滅亡を免れ、日向高鍋に転封となり秋月城は廃城となった。関ヶ原の役後、軍功に拠り筑前一国は黒田如水・長政に与えられた。長政は筑前入国後、秋月に叔父の黒田直之が居館を構えた。寛永元年(1624)、長政の三男長興が福岡藩主忠之から夜須・下座ほかに五万石を分与され立藩、城主として秋月氏の館を改修して居城とした。長興は多くの人材を登用して善政を布き、また島原の乱に出陣し軍功をたて、以後本藩の右翼として本藩の名代を務めた。秋月の風土と相まって結束力の強い藩風を形成、多くの逸材を輩出した。長貞は定免制の実施や蔵米知行を採用、長舒は嘉摩川水道を黒崎に通して永世水運を図る等実績を挙げた。幕末、長徳は新銃隊を組織して洋式調錬を行ったが藩論は一貫して佐幕派であった。しかし佐幕派の中心人物が暗殺されるに及んで旧幕領の取締に出兵した。 |