日本の城跡
大宰府
略史 古代において九州全域を行政下に置き、外寇の防衛と外交の権限を与えられた官庁である。六世紀前半、筑紫君磐井の平定後、宣化天皇は那ノ津に官家を設け、河内・尾張等畿内周辺地の屯倉のもみを運んで非常に備えさせた。その後推古朝に遣隋使派遣も始められ、大陸からの使者の接待役を担う等辺境の防衛と外交窓口であった。更に大宰府の大きな転換期となったのは、白村江の戦いである。百済の救援に赴いた日本水軍は唐・新羅の連合軍に大敗し、百済の遺臣と共に引き揚げてきたが、逆に大陸からの侵攻が脅威となった。天智天皇は対馬・壱岐・筑紫に防人を配し、烽を置いた。そして那ノ津から大宰府を後退させ、前面の山地の狭い所を土塁で結び、土塁に木樋を埋め、いざという時は水を引き堀池になる水城を構築した。更に百済の遺臣たちに大宰府の後方に大野城・基肄城を築き、その他肥前の椽城・対馬の金田城・讃岐の屋島城・大和の高安城等が造られ、都までの軍事上の拠点が造られた。その後唐と新羅が争い日本への脅威が無くなり、大宰府は西海道の統轄と外交の任を与えられ、特別行政府としての体制を整えた。その後律令制は緩み、大宰府の機構・統制も衰退、平安時代に入ると上級官人は殆んど赴任しなくなった。更に鎌倉幕府が鎮西奉行を置くに及び大宰府は有名無実となった。 |