日本の城跡
福岡城(別称:舞鶴城)
略史 黒田如水・長政父子は関ヶ原の戦いの軍功で中津から一躍筑前五十二万石の太守になった。黒田氏は当初、前領主小早川秀秋の居城名島城に入城したが、手狭な為に新城築城を企画し、古代の迎賓館であった鴻矑館が位置する福崎の地に着手、七年を費やして完成をみた。次の忠之の時、寵愛小姓倉氏の側近政治の乱れを因とする”黒田騒動”が勃発している。島原の乱の出兵、警固等から財政は逼迫、次の光之は家臣の軍制、俸禄、職制を改革、また有田焼の専売等積極的に再建策を実施した。更に歴代藩主も倹約令、新田・塩浜の開発、備荒貯蓄等で対策したが改善できなかった。その後の藩主が一橋・京極・薩摩家など他家からの養子で継ぎ、幕末には島津長溥が相続、洋学の関心深く西洋の知識、技術を積極的に摂取した。政治的立場は開国と公武合体の佐幕派であったが、八・一八の政変で挫折、後は藩論が大きく勤王、佐幕にぶれた為多くの殉職者を出している。最終的には勤王として戊辰時には新政府軍に参陣した。次の藤堂家からの養子長知は巨額の借財返済に困り太政官札を贋造、発覚し免職処分を受けた。 |
二の丸松木坂御門 | 同石垣 | |||
二の丸・本丸石垣 | 二の丸・本丸裏御門 | 同 | 本丸石垣 | 二の丸・南二の丸方向 |
南二の丸前の井戸 | 南二の丸虎口 | 同内部より | 南二の丸 | 同多聞櫓 |
同・井戸 | 同の腰郭 | 同下の水の手御門 | 水の手御門・御武具櫓石垣 | 南二の丸多聞櫓・腰郭 |
同多聞櫓 | 同 | 三の丸石垣 | 桐木坂御門 | 同石垣 |
三の丸 | 同 | 同石垣 | 同 | |
三の丸・大濠方面 | ||||
本丸井戸 | ||||
同 | 同 | 同石垣 | 同・付け櫓台 | |
同・埋め門 | 大天守台石垣 | 大天守台腰郭 | ||
大天守台建物礎石 | 鉄門・本丸 | |||
本丸石垣 | 同・月見櫓台 | 本丸から水の手郭跡 | 同から二の丸御殿跡 | 本丸祈念櫓・石垣 |
同石垣 | ||||
二の丸 | 同 | |||
同 | 同 | |||
母里太兵衛邸長屋門 | 移築名島門 | 御鷹屋敷土塁 | 同 | 同 |
同 | 大手門(下の橋門) | 同 | 同 | |
水堀 | 同 | 上の橋門 | 同 | |
東御門跡 | 移築本丸表御門 | 大濠公園 | ヤフードーム | |