日本の城跡

福岡城(別称:舞鶴城)

大手門・伝潮見櫓
訪問日 H24年 9月
ポイント 福岡城は玄界灘を一望し、博多津、唐津、大宰府方面へ通じる街道を押さえる要衝の地である。広さは八万坪におよび、本丸を中心に二の丸が取り巻き、中枢部西方には三の丸・鷹屋敷で固め、周囲には石垣を巡らした総石垣で築かれ、世に「石城」と称された。更に祈念・月見・潮見・武具、その他四十七の櫓を築き、十数か所に門を構えた。東側に那珂川を以って堀とし、西側の干潟「草ヶ江」を大堀とした。また東に新たに中堀・肥前堀を堀り那珂川と結びつけ、河川の流れを外堀として取り込み、更に丘陵の南と北に堀を設けて東西の堀を連結させ、水堀に囲まれた要塞を構築した。
印象 さすが黒田如水が築城した堅城だ。ここも30年前に来たことがあるが、あまり覚えていなかった。松木坂御門下の駐車場から登ると、すぐに二の丸・本丸の石垣が目に飛び込んでくる。その石垣沿いにまず南二の丸へ。長い多聞櫓が残る。次に桐木坂門から三の丸方面に降り、大濠方面を見る。土塁が残っている。本丸へ裏御門から戻る。井戸が二つ、この城は井戸が多い、さすが。天守台石垣が本丸南端に、鉄御門を登り天守台へ、がっしりした感じだ。その隣に小天守台が残る。本丸から今は運動城になっている水の手郭を。足元は高石垣が連なっていた。祈念櫓を見て表御門から二の丸へ。ここにも井戸。二の丸の扇坂御門を見て再び駐車場方面に行き、弾正郭・長屋門・名島門を見て大手門へ。復元された伝潮見櫓・大手門は立派。次に堀沿いに二の門方面に、時間がなくざっと見た。見応えのある大きな城だった。
地図
地図をクリックすると拡大します

略史  黒田如水・長政父子は関ヶ原の戦いの軍功で中津から一躍筑前五十二万石の太守になった。黒田氏は当初、前領主小早川秀秋の居城名島城に入城したが、手狭な為に新城築城を企画し、古代の迎賓館であった鴻矑館が位置する福崎の地に着手、七年を費やして完成をみた。次の忠之の時、寵愛小姓倉氏の側近政治の乱れを因とする”黒田騒動”が勃発している。島原の乱の出兵、警固等から財政は逼迫、次の光之は家臣の軍制、俸禄、職制を改革、また有田焼の専売等積極的に再建策を実施した。更に歴代藩主も倹約令、新田・塩浜の開発、備荒貯蓄等で対策したが改善できなかった。その後の藩主が一橋・京極・薩摩家など他家からの養子で継ぎ、幕末には島津長溥が相続、洋学の関心深く西洋の知識、技術を積極的に摂取した。政治的立場は開国と公武合体の佐幕派であったが、八・一八の政変で挫折、後は藩論が大きく勤王、佐幕にぶれた為多くの殉職者を出している。最終的には勤王として戊辰時には新政府軍に参陣した。次の藤堂家からの養子長知は巨額の借財返済に困り太政官札を贋造、発覚し免職処分を受けた。
二の丸松木坂御門 同石垣
二の丸・本丸石垣
本丸石垣
二の丸
二の丸・本丸石垣 二の丸・本丸裏御門 本丸石垣   二の丸・南二の丸方向
南二の丸前の井戸 南二の丸虎口 同内部より 南二の丸 同多聞櫓
同・井戸 同の腰郭 同下の水の手御門 水の手御門・御武具櫓石垣 南二の丸多聞櫓・腰郭
同多聞櫓 三の丸石垣 桐木坂御門 同石垣
二の丸石垣
三の丸から二の丸石垣
三の丸 同石垣
同・土塁
三の丸・大濠方面
本丸裏御門を内部より見る
本丸・井戸
本丸塀土塁
本丸井戸
本丸大天守台石垣
同鉄門
同石垣 同・付け櫓台
同・埋め門 大天守台石垣 大天守台腰郭
御武具櫓御門
大天守台建物礎石
鉄門・本丸
大天守より市内
同より大濠方面
小天守台石垣
本丸・井戸
本丸石垣 同・月見櫓台 本丸から水の手郭跡 同から二の丸御殿跡 本丸祈念櫓・石垣
本丸表御門・二の丸方向
同を二の丸から
同石垣
本丸祈念櫓
二の丸
扇坂御門
三の丸
二の丸石垣
母里太兵衛邸長屋門 移築名島門 御鷹屋敷土塁
御鷹屋敷
北の丸
伝潮見櫓
同・石垣
大手門(下の橋門)
水堀 上の橋門
東御門跡
移築本丸表御門
大濠公園
ヤフードーム