日本の城跡

元寇防塁

防塁石碑
訪問日 H24年 9月
ポイント 幕府は異国警固番役を制定、大宰少弐を指名して九州の守護を統括させた。任務は春は肥後・筑前、夏と秋は筑後・豊後、冬は薩摩・大隅・日向に分担させた。石材は近隣の山から採石、愛宕山から砂岩、荒津山から礫岩、残島から玄武岩を運んだ。それは高さ二mの土塁の上に、更に二mの石垣を積み重ね、その厚みは三mにおよび、伝令の為の騎馬が疾走できるものであった。弘安の役では竹崎季長・河野通有・菊池武房・大友貞親らの勇戦と共に元軍の攻撃を防ぎ、防塁の役目を果たした。
印象 第一次侵攻での被害を参考に構築。元の侵攻を防いだ土塁・石垣。住宅地の細い道を通り、玄界灘の砂丘へ。大半は小高い防風林・土塁のなかに埋まっているようだが、一部発掘復元された、さすが結構長い。鎌倉幕府の大国元への国を守る懸命な重要防衛拠点となったもので、感慨深い。生の松原方面は夕闇がせまり、さっと見て終わる。
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略史  文永十一年、世界の大半を征服した蒙古のフビライは日本侵攻を企て博多湾に襲来、日本軍は苦戦し、博多の街は大きな被害を受けた。この時の軍勢・武器・戦闘に驚いた鎌倉幕府は、再度の襲来を予測し、武藤経資に命じて九州諸国の御家人に分担させ、博多湾岸に二十qにわたり石垣を積み、防塁を築造した。そして弘安四年の役で、十四万、四千四百艘の大軍に対し、西戸崎・能古島・志賀島の石塁は元軍を寄せ付けなかった。
今津の復元防塁
同土塁 生の松原の防塁