日本の城跡

水城(別称:土居山)

水城東門跡
訪問日 H24年 9月
ポイント 水城は御笠川沿いに築かれた大堤防で、高さ十m強、幅は広い所で三十m、東西千mの平地防塁である。内側に水を漲らせた貯水堤であったようだ。更に堤の外側は勾配がきつく、内側はなだらかな二段構えであった。また二か所に城門をもち、人馬の出入りを規制するなど大規模な城郭なみであった。
印象 百済救援に派遣した水軍が白村江での戦いで敗れ、大和朝廷が唐・新羅連合軍の侵攻を恐れ、太宰府防衛の為築城。山と山の間を堤防のように土塁を築いた。今はかなり消滅しているが、一部は田園の中に残っていた。高さが十m、長さが一キロにも及んだとのこと。大陸の逆襲を本当に恐れた大和朝廷の姿が浮んだ。
地図
地図をクリックすると拡大します

略史  天智天皇二年(663)、百済救援の日本軍は白村江で唐・新羅連合軍と戦って大敗した。おどろいた大和朝廷は翌年、対馬・壱岐・筑紫に防人・烽を置き、百済の遺臣の指導の下、大宰府防衛の為の水城の大堤を築いた。しかし大陸からの侵攻はなかった。
水城東門付近
水城
水城正門跡