日本の城跡

中城城

三の郭城壁
 訪問日  H26年 1月
 ポイント  中城城は貿易港であった屋宜港に程近い丘陵上にあり、南側に伸びる丘陵の東崖縁を天然の要害としている。城は連郭式の山城で、六つの郭で構成されている。城壁は主に琉球石灰岩を切り積んだもので、自然の岩石と地形的条件を生かした美しい曲線で構成、野面積み(南の郭)、布積み(豆腐積み、一の郭、二の郭)、あいかた積み(亀甲乱れ積み、北の郭、三の郭、物見台)が見られ、来島したペリー提督が城壁・アーチ門の石垣積みの技術の素晴らしさを絶賛している。
 印象  すばらしいグスク。ここは首里城と違う、戦う城でがっしりとした感じだ。本土の城のような連郭式縄張り、しかしいろいろな積み形と本土とは違う美しい曲線の城壁、アーチ式門は見応え十分だ。ただ修理中のクレーンが若干、邪魔したが。城跡の西側に廃墟となったホテルがあった。これは当城内に建築を計画したが、反対運動で場所を変更、海洋博開催を目指して建築したが、業者が倒産し廃墟となったもの。なんとなく感じるものがあった。
 地図  
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略史  14世紀後半頃まで、先中城按司で英祖王の次男が数世代にわたり西の郭・南の郭・一の郭・二の郭の主なものを部分を築き上げた。1440年に琉球王国統一初期で首里王府の王権が沖縄全土まで届かなかった頃、勝連城主の阿麻和利を牽制する為、読谷の座喜味城主護佐丸が王府の命により中城城に移り住んだ。護佐丸は三の郭・北の郭を増築し城壁を積んだ。護佐丸は王権を勝連城主・阿麻和利から守ろうとしたが、阿麻和利は先手を打って海上を横断し、中城湾を経て与那原に上陸、護佐丸の謀反を讒言し、王命を奉じて征討軍を率いて中城城を囲んだ。護佐丸は抗弁することなく、潔く妻子とともに自刃した。島津侵入後は番所となり、明治の廃藩置県後は中城村役場として利用された。戦争による被害が少なく石積みが良好に残った。本土復帰後、国の史跡に指定され、補修・復元工事が進められており、今般首里城などと共に世界遺産に登録された。

遠望

三の郭城壁遠望

城郭模型

三の郭城壁・裏門

アーチ造りの裏門・北の郭へ

北の郭城壁

琉球石灰岩の石垣

北の郭

二の郭城壁

北の郭

同・井戸

同井戸

北の郭

同城壁


北の郭と西の郭間のアーチ門跡

西の郭

二の郭へ

二の郭帯郭

二の郭城壁

二の郭と一の郭間の城壁・アーチ門

二の郭虎口

二の郭

同城壁

同城壁

同拝所

同城壁

同城壁

二の郭を振り返る

三の郭


同虎口

同北の郭から

一の郭城壁と西の郭



同と南の郭方面

西の郭側の正門

同王手側から

同の城碑


正門城壁・監視窓

王手道

カンジャーガマ(鍛冶屋跡)

同・南の郭城壁

同の虎口

同からの中城湾

同から廃墟のホテル

西の郭から南の郭

一の郭城壁

南の郭へ、正門

南の郭虎口


同から正門を見る

南の郭拝所

同城壁・監視窓

同城壁

同虎口?

そこにいた鳥

南の郭、何の跡?

琉球花崗岩

一の郭へ

同から南の郭

同から南の郭城壁、廃墟のホテル

一の郭虎口

同城壁

一の郭

同拝所




同拝所

一の郭からアーチ門

二の郭から

アーチ門の扉穴