日本の城跡

今帰仁城(別称:北山グスク)

外郭にある城碑
 訪問日  H26年 1月
 ポイント  海抜100mの丘陵上に位置する平山城。三山時代、随一の規模を誇る。東側の志慶真川を天然の水堀となし、南側の窪地も天然の空堀を形成している。城郭は南北350m、東西800mに及び、高さ6~10mの外周1500mの城壁が地形に沿って巡らされ、中国の万里の長城を思わせる。そして西の大手から東に高くなる地形に、二の郭・北殿・大庭・御内原・主郭が配置された堅城である。中国や東南アジアとの貿易を盛んに進め繁栄したらしく、青磁・白磁等の陶器類の破片が多く出土している。
 印象 大規模な城郭だ。日本の万里の長城と言われるように城壁が美しく連なり素晴らしい。川、谷など自然地形を堀などに利用しており、本土の山城のようで馴染みやすかった。満開の彼岸桜 の中を外郭を通って平郎門へ、大隅のカーブした城壁が目に迫ってくる。いよいよと思うと胸が踊る。門をくぐり、大隅を右に見ながら、ごつごつした石道の旧道を行くと、左の谷(カーザフ)がなんとも神秘的だった。次に政治や宗教の儀式の会場になった大庭を通り、本殿跡や火の神を祀った祠がある主郭へ出た。ここの城壁から、眼下の志鹿真門郭・志鹿真門川を見ると当城の堅城ぶりが分かる。次に多くの拝所がある女官達が住んでいた御内原に、ここからの大隅の城壁が美しい。見所いっぱいの城郭で満足。帰りに海洋博の水族館に行く、イルカのショウが楽しかった。
 地図  
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略史  当城は別名北山城と言い、12~13世紀に築城されたといわれるが、築城者等の詳細は不明である。沖縄が三山時代の頃、北山王の居城であった。三山とは「北山」・「中山」・「南山」のことを言い、「北山」は本島北部地方が一国をなしたていた時の呼び名で今帰仁城が統治していた。「中山」は首里城によって中部地方を統治し、「南山」は高嶺の大里城によって南部地方を統治し、それぞれ「北山国王」・「中山国王」・「南山国王」と言われた。1416年、中山王の尚巴志率いる連合軍との戦いで敗れ、以後中山から派遣された北山監守が代々居城したが、1665年に監守が中山に引き揚げてからは空城となった。更に薩摩軍の琉球侵攻により、城は炎上、廃墟となったが、城は拝所として精神の拠り所として生き続けた。そして沖縄の本土復帰後、国指定史跡となり、2000年に世界遺産に登録された。

外郭


同城壁




同・大隅城壁


同・大隅城壁




同・カーザフ方面・彼岸桜

大隅城壁

平郎門

同内部・門番詰所

同・城壁

登城道・彼岸桜

大隅・城壁


同の彼岸桜

カーザフ(川の谷間)



岩石の穴

旧道の岩石

ごつごつした旧道

同・虎口



同下の小郭

旧道の脇の新道

大庭


同・御内原方面

同の彼岸桜


同御嶽

同北山王の側室の歌碑


主郭隅城壁

主郭城壁

同御殿跡



同・火の神を祀る祠

主郭

同城壁と虎口





同城壁から志慶真門郭・志慶真門川


同・志慶真門川に下る虎口

同と城壁

御内原の城壁から・穴は?

御内原

御内原から見る大隅城壁と志慶真門川

同の拝所・城壁




大隅の城壁





大庭と御内原間の城壁

御内原の城壁

大隅内部

大隅城壁

同・平郎門方面

外郭城壁から大隅城壁

外郭城壁




平郎門城壁

カーザフ


外郭城壁




城の西側の急崖

海洋博