日本の城跡

首里城(別称:中山城)

正殿
 訪問日  H26年1月
 ポイント  首里城は内側城郭と外側城郭に分けられる。正殿をはじめとする城内の各施設は東西の軸線に沿って配置されており、西を正面としている。そして日本・中国との長い交流の歴史から、正殿・南殿・北殿など両国の建築文化の影響を随所に受けている。また首里城は王宮であると同時に、王国統治の行政機関、首里王府の本部でもあった。更に各地の神女を通じて、王国祭祀を運営する宗教上のネットワークの拠点でもあった。加えて芸能・音楽が盛んで美術・工芸の専門家が多く活躍するなど文化芸術の中心であった。城郭としては西北の守礼門から東南の継世門までの間に18種以上の諸殿・鐘楼・城門などがあるが、軍事目的より政治の中心地としての役割を中心に建てられている。
 印象  沖縄は初めての訪問、ツアーで行く。琉球国王の居城であったが、戦争で灰塵と化したが守礼門が再建、更に世界遺産登録で急速に復元が進んでいた。沖縄は1月でも暑かった。守礼門から坂道を上がっていくと、曲線の石垣、石門、正殿はじめ朱色の建物、やはり日本の城郭とは違う。復元工事中で城の全貌は見られなかったが、かなりの規模。それと首里城は、構造は違うが京都御所的な軍事拠点でなく政治・行政の拠点であったことが感じられた。東シナ海が一望。沖縄は建物・風土等から本土とはかなり違った。年嵩のガイドさんだったせいか、本土に対する被害者意識が強く、また本土より文化が進んでいたことを強調していた。本土を”大和”、中国を”唐”と呼んでいたそうだ。ちょうど旧正月で中国の人が沢山来ていた、中国人にとって曲がった長く高い石垣・中国建築風正殿等々、居心地の良い場所に感じた。
 地図  
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略史 13世紀末から14世紀のグスク造営期に造られ、14から15世紀初頭の三山時代には中山の城であった。尚巴志が三山を統一し琉球王朝を立てると、首里城を王家の居城とした。そして首里は首府として栄え、第二尚氏においても変わらず、王国の政治・文化・外交の中心的役割を果たした。首里城は王位争いなどで数度にわたり焼失しており、財政逼迫から薩摩藩から原木等の提供を受けている。現在見る首里城は三度目の火災から再建された1715年から戦前までの姿の基にしている。明治時代の沖縄県設置により、首里城は政府の所在地としての役割を失い、日本陸軍の第六師団(熊本)の軍営となった。その後首里区に払下げられ学校などに利用された。王宮でなくなった首里城は急速に荒廃、老朽化が進んだため昭和初期の保存運動により正殿の改修工事され国宝に指定された。しかし太平洋戦争中の沖縄戦において日本軍が首里城の下に地下壕を掘り陸軍32軍の総司令部を置いたこともあり、連合国軍の激しい艦砲射撃、その後の激しい戦闘で首里城や城下町・宝物・文書が破壊・焼失した。戦後、守礼門が再建され、日本復帰後に歓会門と周囲の城郭が再建、更に琉球大学の移転により本格的再建計画がスタートした。そして2000年には首里城として他のグスクとともに”琉球王国のグスク及び関連遺産群”の名称で世界遺産に登録されている。
沖縄の城(100以上あるといわれるグスク)の特色(大陸起源である。)
・石垣が複雑な曲線を描いて続き、勾配も垂直に近い急なもので、反りがない。
・城門は石造アーチ式の門を用いる。
・城門には木造の楼閣を上げるが、隅櫓のような建物がない。
・水堀がない。
・首里城の正殿などに見られるように、日本の書院造の御殿とは異なり、中国や韓国の宮 殿建築に類似する。

那覇空港

守礼門

同内部より

左に園比屋武御嶽石門と歓会門方面

龍潭池方面

歓会門・石垣


同石垣

同のシーサー


瑞泉門へ


龍樋

瑞泉門

途中の冊封七碑

瑞泉門内部

同の曲線の石垣

久慶門

同・石垣

漏刻門

同内部

同石垣と久慶門

同から円覚寺方面

万国津梁の鐘

同から正殿方向

広福門と漏刻門

広福門内部

首里森御嶽

用物座

左が京の内

琉球の踊り

泰神門


北殿

南殿・番所

正殿

正殿前の大龍柱

京の内の石垣

奥書院

鎖之間庭園

御殿

継世門方向

王座

玉座

王冠

国王印

内部

右掖門

真玉森御嶽



西のアザナから



西のアザナ方面石垣

木曳門


西のアザナ方面石垣


琉球大学跡記念碑

首里城碑

木曳門前広場より首里城方面

龍潭池からの首里城

石畳坂


祈り大木


金城大樋川と村屋

金城大樋川

沖縄の花





沖縄の墓地