日本の城跡

座喜味城(別称:読谷山城)

二の郭城壁
 訪問日  H26年 1月
 ポイント  琉球の城は細長い形をしたものが多いが、座喜味城はバランス良い正三角形に近い形をしている。また琉球石灰岩で城壁や城門の石積みの曲線幾何学的精巧さ、美しさは琉球第一である。城郭は一の郭と二の郭からなり、それぞれの郭にアーチ門が造られているが、門の中央には楔石がはめられており、現存アーチ門で一番古いといわれる。城壁の曲線は地盤の弱い赤土の台地にあるため、城壁のカーブを大きくして台地に掘り込んで石垣を分厚く積み強固にした。城壁の高台から残波岬が、晴れたときは遠く慶良間諸島や伊江島などが望める。
 印象  比較的小規模な城。ここの城壁は曲線も大きく、石積の美しい。また一の郭と二の郭間に袋小路の武者隠しがあったり戦略的にも考えた城だ。大戦では日本軍の飛行場がこの下の海岸寄りにあり、この城も砲台があった為、かなり被害があったようだ。戦後は米軍の施設があり、一部復元後は立ち入り禁止になったが、眺めも良くその周辺が公園になっていたらしい。そして世界遺産登録され、松林の中に美しい姿に戻った。城壁から見る眺望も良かった。
 地図  
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略史  座喜味城は15世紀初頭、築城家としても有名な読谷山按司護佐丸によって築かれた。護佐丸は当初、山田城に居城していたが、1416年に中山尚巴志の北山城(今帰仁城)攻略に参戦し、三山統一に貢献した忠臣である。その直後、北山の旧勢力を牽制する為、地の利を考慮して山田城を解体して座喜味に築城した。その後護佐丸は王命により、勝連城主の阿麻和利を牽制する為に中城城に移ったが、阿麻和利の計略で反逆者の疑いを受け自刃した。先の大戦では日本軍の砲台となり、戦後は米軍のレーダー基地が置かれたため一部の城壁が破壊された。その後城壁の復元が行われ、復帰後に国指定遺跡、そして世界遺産に登録された。

入口

高倉

松林

松林越しの城

二の郭城壁(横矢掛り)・アーチ門

二の郭城壁


二の郭アーチ門(楔がある)

アーチ門内の扉穴

二の郭城壁

祈りの場

修理された城壁

一の郭城壁・二の郭

二の郭

袋小路の武者隠しと城壁


同の石積み

同の穴

二の郭アーチ門内部から

一の郭アーチ門

同内部から

一の郭・城壁


同・正殿跡

郭内仕切る石積み

破片

何?

一の郭城壁上から二の郭城門方面

一の郭城壁

一の郭城壁とアーチ門

一の郭城壁と二の郭・城壁

一の郭

一の郭城壁から


一の郭後ろの公園

右側の城壁



同(横矢掛り)


骨壺